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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     四 若狭国分寺跡・若狭神宮寺
      謎の多い若狭国分寺跡
 天平十三年(七四一)に諸国国分寺建立の詔勅が発布され、同十九年〜天平勝宝年間(七四九〜五六)ごろに国分寺建立が始まったと考えられているが、果たしてそうであっただろうか。全国各地で明らかにされているように、白鳳期以来の既存の寺院を転用する例が多くあって、いっせいに諸国国分寺が創建されたとは考えられない。国分寺建立による国家安穏の気運はもっと早くからあったが、疫病の流行、例年の飢饉、新羅との政情悪化、天平十二年の藤原広嗣の乱など国家大変の極に達していた。したがって急いで諸国国分寺を建て、祈念する必要があった。しかし、急激に大規模な寺院が建てられるはずはなく、若狭国分寺も例外ではなかったと考えられる。
 若狭国分寺は太興寺の項で述べたように、八世紀中ごろには成立していなかったと推定される。第一の理由は、瓦がまったく検出されていないという事実である。正確にはまったくとはいえず、伽藍周辺の溝状遺構から細かい布目のある瓦の細片若干と、飛鳥寺・四天王寺様式に近いと推定される軒丸瓦残片(図114)が出土している。この問題は後述するとして、いわゆる国分寺創建の八世紀代の瓦は発見されていない。同年代の太興寺・若狭神宮寺に平城宮跡出土瓦と同型式の六二二五型式が使用されているにもかかわらずである。第二に、寺域は二町方格を形成しながら建造物は小規模で、平安期成立の寺院に類似することが拳げられる。第三には、通常国分寺の創建は天平十三年聖武天皇の発願とされるが、慶長八年(一六〇三)の「若狭国分寺釈迦堂再建勧進帳」(『小浜市史』社寺文書編)には「夫当寺は平城天皇の御願、大同二年の御建立」と記され、大同二年(八〇七)に現在地に新国分寺を創建したことを示唆していることである。近世初期の文書のため問題もあるが、同十四年の勧進帳には聖武天皇発願とあることも考慮すれば、あるいは平城天皇創建の伝承は古くにさかのぼるのかもしれない。
図114 溝跡出土瓦の拓影

図114 溝跡出土瓦の拓影

 若狭国分寺は経済的な理由によって瓦を使用しなかったのではなく、平安初期に創建されたとすれば、奈良期の瓦が出土しないのは当然のことであろう。
 しかし、気になるのはここで検出された飛鳥寺・四天王寺様式に類似する軒丸瓦片である。出土状況から、ほかからの流入とは考えられず、太興寺創設以前にすでにこの地に寺院の存在したことが推測されよう。とすれば太興寺と同じ時期に近接して寺院の存在したことになり、その性格が問題となる。若干飛躍した考え方をすれば、官衙にともなう寺院との見方もできるであろう。このことは、寺域の西北端で発見された北方建物跡が、果たして国分寺の雑舎群であったかどうかにかかわるが、若狭国分寺跡が平安期の創建とした場合、奈良期と推定されるこの建物跡はいったい何なのかとの疑問が生じてくる。この建物跡が当初の官衙とすれば、前代からの寺院がそれに付属していたとは考えられないだろうか。白鳳期以前では官衙に瓦は用いられておらず、寺院に限られていたことを照らし合わせると、そう考えざるをえないのである。
 いずれにしても、古代寺院および官衙関係では明らかにされない部分が多く、今後さらに検討しなければならないが、仏教による国家安穏の祈願は早くから諸国へ通達されていた。たとえば、神亀五年(七二八)には金光明経十巻が、六四か国に配布されており、幅広く金光明経の読誦が求められている。金光明最勝王経は外敵を祓い、五穀豊穣、国家安穏を願う経として重視されていた。配布された経をもとにして寺院が建立されたこともあったと思われ、比較的早い時期に金光明寺、もしくは国府寺が存在したのではなかったか。ただしこれはあくまでも推測であることを付記しておく。
 ちなみに、若狭国分寺は鎌倉時代中期までは確実に存続しており、文永二年(一二六五)成立の「若狭国惣田数帳案」(東寺百合文書『資料編』二)には、僧寺・尼寺の寺領が記されている。同年の「若狭国中手西郷内検田地取帳案」「若狭国東郷実検田地取帳案」(東寺百合文書『資料編』二)をもとに条里復原をすると(『資料編』一六下)、国分寺域はこの時期の条里域方二町に合致し、その周辺に寺田を保有していた。もっとも尼寺は所在地不明だが、平安期に国府が所在したとされる遠敷地域(『小浜市史』通史編上)の西側、字「金堂」などの付近ともいわれ、国府を中心にして東西に僧・尼寺を配したことも考えられる。基本的には僧・尼寺は離れて所在し、現在判明の諸国国分寺三四例中一九例が東西となっている。



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