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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    三 松原客館の実態とその位置
      松原駅館(客館)の現地比定
 延喜十九年の例のように、松原の駅館と客館が同じ場所にあったと考えられるので(第三節)、先にあげた以外の「松原駅館」の史料を示す。『延喜式』兵部省と『和名抄』(高山寺本)によると、松原駅は近江国から越前国に入った第一の駅で、駅馬の数も国内のほかの駅より三疋も多い八疋で、北陸道および若狭国への分岐点として重要な駅であった。なお平城宮跡出土木簡に「松原駅家」と記された荷札木簡がみえる(『資料編』一)。『延喜式』兵部省や『和名抄』(高山寺本)によると、松原駅は伯耆・越前両国にあるので越前国とは断定できない。しかし平城宮からは越前国の木簡が比較的多く出土していることから、参考として示しておく。
写真78 気比の松原遠景

写真78 気比の松原遠景

 先に述べたように、松原客館と松原駅は近く併存していた可能性が高いことを考慮にいれると、その比定地は、第一に松島町の気比の松原とよばれる地区があげられよう。現在、ここは国指定の名勝となっているが、砂丘が発達し、海岸線が海に向かって前進しているので、古代の海岸線は現在の敦賀高校前の道路あたりといわれている。その松島町の永建寺付近にある松原神明神社(今浜神明神社)は、『気比宮社記』に相伝として「上古、高麗・渤海国人を饗応せしむるの客舎の旧地也」とあり、また『敦賀志』によれば「西今浜の氏神は神明両宮、古老の説に此御社は松原客館の跡に崇祀せる社という」とある。さらに同じ『敦賀志』に「松原の内堀切の東、永建寺の西に在りし故、松中村という。昔の松原の駅のなごりならん。文禄年中(一五九二〜九六)、今の地へ移さる。其頃までは家数も六十余家ありしが、其後いか成る事有りけん、田地を捨てて立去しとぞ。文化の頃(一八〇四〜一八)は漸く六、七家なりしが、今は只一家のみ残れり」とあり、松原駅に関する伝承ものこっている。
 これらの伝承をふまえて、石井左近は『延喜式』の松原駅と松原客館を同一場所とみる考えに立ち、(1)永建寺の西の旧敦賀市営球場から貿易陶磁である青磁の破片が出土していること、(2)松中村が昔から気比神宮の犬神人になったり、毎年正月に藁莚や松原産の譲り葉などを気比神宮に献納するのが慣例になっていることなどは、気比神宮の宮司が管理をしていた当時、駅長や駅子が奉仕した慣例の名残りと思われること、(3)駅跡と思われる付近の砂地より須恵器の破片がたくさん発見されたことから、笙ノ川西岸の松島町にある神明神社から永建寺にかけての場所に松原客館の跡を求め、おそらくはその廃館の跡を永建寺建立のために敦賀郡司に提供したと推定している(石井左近『敦賀の交通遺跡』)。
 これに関連して、そののち、実際の発掘調査では、別宮神社の前で発見された字宮森の松原遺跡で、和同開珎・小鏡・銅鈴、緑釉・須恵器の破片が出土したことが確認されている(山口充「松原客館について」『気比史学』二、敦賀市教委『松原遺跡』、『資料編』一三)。しかし残念ながら、客館や駅館に比定しうるような建物跡の遺構は現時点では発見されていない。
 また歴史地理学の立場から、図49のような古代の敦賀湾が復原されており、松原駅を入江の南側の最奥部にあたる三島の洪水堆積性微高地上に、松原客館を入江の西にあたる近世の松中村の砂丘・浜堤上に、それぞれ推定されている(南出真助「古代敦賀津の中世的変容」『人文』二四)。このように松原客館を敦賀湾の西側、現在の櫛川町の近くに求める見解、すなわち敦賀湾の南西部に求める見解が多い。しかし、北陸道の松原駅の近くに客館があったとすると、この説は従来の北陸道の駅路のルートからみると、遠回りになること、客館を「検校」した気比神宮からやや離れた位置にあることなど難点もある。
 一方『延喜式』雑式の「凡そ越前国松原客館は気比神宮司をして検校せしむ」という規定から、松原駅を今の気比神宮の近くとし、さらに松原客館は最も形勝の地を選ぶべきで、今の金ケ崎神社の鎮座する金ケ崎の地とする説もある(蘆田伊人「北陸道古駅路新考」『歴史地理』八三―一)。たしかに金ケ崎から見る敦賀湾は素晴らしい風景であるので、客館の置かれる条件を一つ満たしている。また千田稔は、同様な理由に加えて、地籍図を検討し、気比神宮の西に「館出口」「館ノ腰」という小字名を見いだし、松原客館を気比神宮が検校するならば、位置的に神社の近くだという理由で、「館」の小字名の付近を比定地としている(千田前掲書)。このように松原客館を今の気比神宮近くとする説もある。しかしこの説は現在のこる松原の地名が気比神宮の近くでなく、やや離れて存在するという難点がある。
写真79 別宮神社

写真79 別宮神社

 以上のように、松原客館の比定地は南出による古代の敦賀湾の復原図を参照すれば、西の入江に比定する説と東の入江に比定する説の二説あるといえよう。今後、その地の決定は考古学的な発掘調査にゆだねなければならないが、近年の研究を参考にすれば、現時点では次のように考えられる。まず、松原客館と松原駅館を同所とみた場合、北陸道のルートの問題に関しては、近江国の靹結駅から直線的に越前国へ入るルートとして、九世紀では塩津道や七里半越え以外に、石庭から北に知内川の上支流八王子川の谷をさかのぼり、三国山東方の海抜約五七〇メートルの峠を越えて黒河川の谷に入り、雨谷・山から御名・公文名あたりに出る白谷越え(図70)とよばれるルートが考えられている(木下良「若狭・湖北間の交通路に関する三つの考察」『敦賀市史研究』二)。公文名あたりは黒河川の扇状地の扇央部にあたり、眼下に敦賀平野の中央および西半分と敦賀湾が広がり、松原客館の推定地(松原遺跡付近)はほぼ真北に一直線である。また近接する「別宮」(別宮神社)が気比神宮の「別宮」として古いものであるとすれば、松原客館は気比神宮に近接していなくとも、「別宮」が松原客館の管理にもあたったと考えれば問題はない。さらに北陸道のみならず若狭国との交通体系、および敦賀津を起点とした北陸道の海路交通の体系のなかに松原駅館を位置づけると、松原駅館を現在の気比の松原付近に求めることも無理なく理解できよう。また、穢れをもちこむとされる渤海使をやや隔離するという意味で、この比定地はふさわしいと思われる(南出前掲論文)。
 なお敦賀の松原客館が『延喜式』以外の史料に「客館」とみえず、「駅館」とみえるのも、当時の利用状況を反映していると思われる。来航した渤海使に、最初に対応する機能を果たす目的で造営が命じられた能登国の客院とは異なり、松原客館には入京する途中、北陸道から近江に入る前にもてなすという機会が多かった。また、渤海使は帰国の際に北陸道から出港することが多かったが、その途中、能登国福良津などに向かう前に、出港の準備が整うまで越前国(おそらくは松原駅館)に滞在し、敦賀津より海路で三国湊を経由し福良津に向かったと思われる。越前国は加賀・能登両国に比べると大国であったので、帰国する渤海使や遣渤海使の供給のための二次的な「便処」として利用されたことが想定される。
 一方、松原駅は海陸の交通の要所だったため、国司などが駅を利用するのが頻繁で、渤海使が利用するのはそれに比べれば稀だったため、「客館」というよりは「駅館」とよばれたのだと思われる。松原駅館(客館)では法的には建前上、渤海使との交易は禁止されていたと思われるが、当然、官人や民間人との私的な交易交流も盛んであったと推定され、平安京以外では渤海文化を受容した最大の中心地であったと考えられる。



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