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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    三 松原客館の実態とその位置
      松原客館と敦賀津(津守)
 北陸道諸国に来航した渤海使は、陸路よりは海路で「松原客館」に至ったと思われるので、関連して敦賀津についても検討する。敦賀津は『記』『紀』の伝承(『古事記』仲哀天皇段、『日本書紀』仲哀紀・応神紀)に「角鹿津」としてみえるのが初見で、『万葉集』に「角鹿津にして、船に乗るとき、笠朝臣金村の作れる歌」(三―三六六)とみえたり、天平勝宝七歳(七五五)九月二十六日付「越前国雑物収納帳」に「敦賀津の定米」と記され、さらに説話ではあるが『日本霊異記』中二四にも「越前の都魯鹿津」にて交易を行った話があるように、古代から有名であった。
 また『延喜式』主税上、諸国運漕雑物功賃条の北陸道の項にも「敦賀津」とみえ、北陸道の海上交通の重要拠点となっていたことが知られる(松原弘宣「古代国家の海上交通体系について」『続日本紀研究』二七三)。『和名抄』には敦賀郡の郷として「津守郷」をのせ、天平神護二年(七六六)十月二十一日付「越前国司解」に「津守郷」の名がのこることから、この郷名が奈良時代までさかのぼることがわかる。
 千田稔によれば、摂津国の住吉神社の宮司が歴代津守氏を名のっていること、『続日本後紀』承和六年(八三九)八月二十日条に、「摂津国の住吉神と越前国の気比神に幣帛を奉って船舶(遣唐使船)の帰着を祈る」とあり、両神とも要津の航海神としてまつられていたという共通点をもっていることから、「津守」はおそらく敦賀津の管理・管掌を意味し、気比神宮が敦賀津の実権を握っていたと指摘する(千田稔『埋れた港』)。すなわち津守郷には、敦賀津の管理を行った何らかの公的施設があった可能性が想定されている。津守郷の比定地については「西福寺文書」の貞和二年(一三四六)三月の「行豊田地売券」に「合壱町者(字長沢) 在越前国敦賀津守郷道口之内」とあることから、敦賀市道口・長沢を含む一帯と考えられる。
 敦賀津と松原駅に関してはややのちの史料だが、『為房卿記』寛治五年(一〇九一)七月の次の記事が注目される。
十九日丙子、早旦、又船に乗り進発す。未の刻、淡津の泊に著く。勅旨田の沙汰に依りて、今日、境内に逗留す。
廿日丁丑、暁更、泊を出ず。午の刻、越前の大丹生の泊に著く。方上御庄司事、豊瞻を儲く。即ち以って纜を解く。入夜、敦賀に著き、官舎に宿す。
廿一日戊寅、今日、敦賀の官舎に休息す。流来の宋人陳苛、籍を進む。資粮を賜う。
 加賀守藤原為房は任国加賀から、越前海岸沿いに大丹生(福井市大丹生町)の泊を経て敦賀の津へと進み、敦賀では「官舎」に宿して休息したと記しているが、敦賀の「官舎」は松原駅館の後身ではないかと想定される。それは院政期の当時、すでに律令制下の駅伝制はほとんど崩壊しているものの、敦賀は海陸交通の要所であるため、松原駅がもっていた機能が変則的ながら保持され、国司の入京や任国への下行の際などに利用されていたと考えられるからである。松原駅館(客館)は敦賀津とも密接なつながりがあったと思われ、この点も考慮にいれつつ、次にその現地比定を行うことにする。



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