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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    三 松原客館の実態とその位置
      松原客館と気比神宮
 松原客館とそれを「検校」した気比神宮との関係に関連しては、松原遺跡が注目される。第二節でもすでにふれたが、櫛川町の別宮神社前の浜堤では、鎮火儀礼が行われたとみられる遺構が見つかっている。これに関連して想起されることは、加賀国の気多神社(石川県羽咋市寺家)とそこから八〇〇メートルほど離れた場所に発見された寺家遺跡との関係である。寺家遺跡の「祭祀地区」と命名された地点では土壙に祭祀物を捧げて火を焚き、外から運び込んだ山土で焼土を覆うという祭祀行為の反復が認められ、それは『延喜式』神祇にみえる鎮火祭の祝詞を彷彿とさせるものである。そして祭料に藁が計上され、焚火儀礼を伴うことが確認できる国家的な祭祀は、鎮火祭など六例を数えるが、その主体は宮城四隅疫神祭、畿内堺十処疫神祭、蕃客送堺神祭などの疫神防遏の祭祀であることから、焚火儀礼が行われた背景には渤海使を「蕃客」視し、「蕃客」が「異土の毒気」「疫神」をもたらすと信じ、気多神社に渡来の「疫神」の追却、祓を要請した律令政府の方針が存在したと考えられる。
 松原客館の存在を前提にすれば、松原遺跡の鎮火儀礼も同様の目的をもって行われた可能性が大きいといえよう。したがって、松原客館を気比神宮司が検校したのは、入京前に越前国において渤海使がもたらす「疫神」「毒気」を祓うためであったと考えられよう(浅香年木「古代の北陸道における韓神信仰」『日本海文化』六、同「古代の能登国気多神社とその縁起」『寺家遺跡発掘調査報告』二)。



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