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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第三節 若越の神々とケヒ神
    二 渡来の神々
      漢神の信仰
 延暦十年(七九一)九月十六日、伊勢・尾張・近江・紀伊と並んで若狭・越前に対し、百姓が牛を殺して漢神を祀ることが禁止された。このことは『続日本紀』にみえるが、『類聚三代格』同日の太政官符「応禁制殺牛用祭漢神事」によれば、もしこれに違反した場合は故殺馬牛罪を科されたことがわかる。同罪は馬牛を故意に殺した罪であり、徒(懲役)一年という重い罪であった(廐庫律 故殺官私馬牛条)。さらに延暦二十年四月八日には越前一国に対して、牛を屠り神を祀ることを禁止している。先の畿内周辺諸国に出された禁令と同じ内容とみて間違いなかろう。ここにみえる漢神とは、どのような神であったのだろうか。
 少し時代はさかのぼるが、六四二年のこと、日照りが続いたので雨乞いのため、村々の祝部の教えにしたがって、牛馬を殺して諸社の神を祀ったり、しばしば市を移したり、河伯(河の神)に祈ったりしたがまったく効果がなかったと群臣が語り合ったのに対し、蘇我大臣蝦夷は、諸寺で大乗経典を転読悔過し、雨を祈ろうと提案したという(『紀』皇極天皇元年七月戊寅条)。ここからは仏教とは異質で、在地の祈雨の方法として、牛馬を殺し神を祀ることがあったことがわかる。
 しかし結局、この方法は雨を降らせることができず、また蘇我蝦夷のとった仏教的呪法も、小雨しかもたらすことはできなかった。それに対し、八月になって皇極天皇が南淵の河上で四方を拝し天を仰いで祈ったところ、すぐに雷雨が五日も降り続いたという。このように伝統的な神祇祭祀によってはじめて雨を降らすことができたということは、先の牛馬を殺す方法が日本古来の祭祀ではないことを示すものである。実際牛馬を殺して神を祀ることは中国にその例が多くある(『漢書』于定国伝など)。また市を移し雨を祈ることも、河伯も中国に源をもつものであることからすると、村々の祝部の教えたのは大陸風の祈雨の方法であったことがわかる。ここには漢神の名は出てこないが、牛馬を殺して祀った神はやはり漢神であったと考えてよかろう。そしておそらく道教系の信仰であったのだろう。
 また、『日本霊異記』中五「漢神の祟により牛を殺して祭り、又放生の善を修して、現に善悪の報を得る縁」には、摂津国東生郡撫凹村の富裕な家長が、聖武天皇の時代に漢神の祟りから逃れようとして、毎年神を祀るのに牛を一頭ずつ、七年間に合わせて七頭殺したが、祀り終わったところ、急に重病にかかった。そこで殺生の業によるものと悟り放生を修したが、とうとう死んでしまった。しかし放生の善により、閻羅王の判定を受けて生き返ることができたという説話がみえる。ここにはまさに漢神が登場する。それはまた鬼神とも表現され、祟りをもたらす神、病気を引き起こす神とみられていたことがうかがえる。
 このように漢神は雨をもたらすとともに、祟り病気をもたらす神として恐れられる存在でもあったわけである。その神を祀るのに牛を殺した。右の『日本霊異記』中五の説話のなかには、殺された牛の化身である牛頭人身姿の七人の非人が、膾机と小刀を持ち出し、「我を殺し賊ちしが如く、膾にしてわん」と言ったことがみえる。ここからは、殺牛祭神の具体的方法をうかがうことができる。すなわち牛の肉を膾にし、それを神に捧げ、さらにはおそらく祀る側もそれを食べることにより神を祀ったのである。
 こうした性格をもつ漢神が畿内周辺、とりわけ越前で広く祀られていたわけである。ここには具体的な祈願の内容はみえない。諸国に殺牛祭神を禁じた延暦十年には、五月から七月にかけて旱天の記事がある(『続日本紀』)。また越前一国への禁制の出た一か月後の延暦二十年五月には、丹生に奉幣し雨を祈っている(『日本紀略』)。この丹生は大和国の丹生川上社のことであり、越前ではないが、この年も日照りが問題になっていたことがわかる。したがって祈雨のために漢神を祀ったのかもしれない。しかし前者の禁制が出されたのが九月という、もう収穫も終わる時期であったことからすると、祈雨と断定することは躊躇せざるをえない。
 いずれにせよ牛は農耕用として貴重で高価な存在であった。それを殺してまで祀る神というのは、農民の間にきわめて強い信仰を集めていたものであった。しかしそうした信仰を放置しておくことは、農業政策上好ましいことではなかった。そのため律令国家はそれを禁止したと思われる。すでに天平十三年(七四一)二月には「馬牛は人に代わりて勤労して人に養わる」ものであるから、先に明制あり禁じているにもかかわらず、国郡が禁止することができず百姓がなお屠殺している状況を指摘し、まず杖罪百を科してから法どおりの処罰をするように罰則を強化している。この明制は先にみた廐庫律故殺官馬牛条を指すものであろう。罰則強化にもかかわらず殺牛祭神はなくならなかったわけである。



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