右のような考察からさらにすすめて、式内社の原祭神を探求することには大きな限界がある。この点を考察するには、むしろ式内社の社名に留意するほうがより有効なように思う。すなわち、以下のように幾つかに分類できるが、それぞれの代表例をあげておこう。
(一)自然信仰にかかわる社名。若狭では、石 比古・石 比売神社(遠敷郡)、高那弥神社(三方郡)、越前では、雷神社(丹生郡)、 山神社(今立郡)、磐座神社・風速神社(大野郡)、井口神社(坂井郡)などの例である。そもそも式内社=官社の周辺には、おそらく集落ごとあるいは数個の集落ごとの小社が一郷に六〜七座は存在したと考察されている(菊池康明「民衆と宗教」『日本民衆の歴史』一)。したがって、磐石・波・風・水・雷などへの信仰は、周辺の集落の人びとの自然と深く結びついた生活のなかで生まれ、生き続けた信仰であったのであろう。
(二)地名にかかわる社名。地名といっても、これには国名・郷名・里名(のちの村名や字名など)、津(港)名・岬名にかかわるものも含まれる。若狭では、若狭比古神社(遠敷郡)、大飯神社(大飯郡)、三方神社・弥美神社(三方郡)、越前では角鹿神社・金前神社(敦賀郡)、舟津神社(今立郡)、足羽神社・椎前神社(足羽郡)、国生大野神社(大野郡)、楊瀬神社・三国神社・高向神社・大湊神社(坂井郡)などである。これらのうち、たとえば三国町の雄島にある大湊神社などは、その占座地の祭祀遺物・遺跡にかかわること、またその雄島が北の海つ道から三国湊へ出入する際の「島当て」ともいうべき標識になっていることなどから考えて、神威は内陸にも海上にも及んだものであろう。この場合にみられるような神能も含めて、神社はそれぞれの神能を発揮しながら、産土神として地域守護の神として人びとに崇敬されたものであろう。この、地名を負う社名のうちに、若狭比古神社のような、往古の地域的首長の形姿に託したものも含めたのは、右のような配慮にかかわってのことだが、ヒコ・ヒメ神についてはさらに後述する。
(三)部民制にかかわる社名。若狭では、日置神社(大飯郡)、和尓部神社(三方郡)、越前では、伊部磐座神社(敦賀郡)、石部神社(今立郡)などである。もちろん、地名や自然信仰と習合した社名もあるし、決して多いとはいえないが、ほかの国ぐにと比較した場合、若越の式内社にみられる一つの特徴といえる。集落単位で部民化された人びとが、信仰者の側から部民集団の称を付したり、朝廷での統率者やその祖神を祀ったことによって生じた社名とみられる。
(四)人名・神名を負う社名。若狭では、苅田比古神社・苅田比売神社(遠敷郡)、越前では信露貴彦神社(敦賀郡)、兄子神社(丹生郡)、比古奈神社(坂井郡)などである。これらの社名とされているのは『記』『紀』や『出雲国風土記』にみえる人名や神名ではない。それらの神話体系とは別に、地域ごとに形象化され信仰された人名や神名とみられる。しかし、このなかにはおそらくスクナヒコナ(少彦名)神より転じたと思われる比古奈神も含まれる。
ただ、この分類のうち、ヒコ・ヒメ神とヒコ神については別途の考察を要すると思う。つまり、これらの神は、若狭では遠敷郡、越前では敦賀郡だけにみられるからである。前者では、石 比古・石 比売神社、苅田比古・苅田比売神社と若狭比古神社二座で、郡内十六座のうち六座を占める。後者では、敦賀郡内四二座のうち天国津彦神社・天国津比 神社と伊佐奈彦神社・玉佐々良彦神社・信露貴彦神社の各一座である。ヒコ・ヒメの神名は、夫婦関係を示すのでなく、兄と妹、姉と弟、時には父と娘、母と息子の強い結合関係を示し、いずれも信仰の古代的特性を示すものとされる(池邊彌「彦姫制史料集成」『成城大学短期大学部紀要』一)。当然、単独の首長神を示すヒコ神は、そこから分化独立した神として形象化されたものと判断できる。しかも、以上にみたような若越も含めて北陸道や隣接の東山道には、ヒコ・ヒメ神は、それが発達した大和国を中心とする畿内に比べると著しく少ない。当然、若越における少数の例が若狭では遠敷郡、越前では敦賀郡に限られていることは、まず若狭が、次いで越前が畿内との強い結びつきから影響をうけて宗教的に変容した姿の一端を示している。こうした判断の生じる根拠として、『延喜式』神名帳について、畿内の山城・大和・河内、北陸道、東山道の近江・美濃の各郡のヒコ・ヒメ神について整理してみると表16のようになる。 |