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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    三 ミヤケと部民
      越前の部民
 越前では、若狭が木簡に多くみられたのに対して、文献史料とりわけ東大寺領荘園関係の文書に多くみられるのが特徴であり、それらをまとめたものが表14である。

表14 越前の部姓者(8世紀)

表14 越前の部姓者(8世紀)
 敦賀郡では、まず伊部であるが、伊部郷はおそらくインベ郷で、丹生郡織田町のあたりと推定される。インベが祭祀を司った古代豪族斎(忌)部氏に由来したものか、あるいはその所管部民にちなんだものかは明らかでない。
 物部は、やはり物部氏所管の部民と考えた方がよいであろう。
 服部は慣例上「ハトリ」と「べ」をつけずに訓まれることが多い。おそらく衣服の製作に関与したのであろう。
 大神部は「オオミワベ」と訓み、三輪山に鎮座する大神神社(奈良県桜井市)に奉仕した大神氏所管の部民であろう。別に宇佐八幡宮(大分県宇佐市)神司の大神氏もある。大神部は筑前を主とし、豊前にも若干分布する。敦賀郡与祥郷戸主神人根麻呂の戸口に大神黒麻呂がみえ、天平十七年(七四五)優婆塞として東大寺に貢進されている(文一一)。
 丹生郡では、まず宇治部であるが、常陸・備前・山背・筑前にわずかにみえる。道稚郎子(応神天皇の皇子)の名代とする説もあるが明らかではない。なお足羽郡草原郷の戸主に宇治宇爾麻呂、草原郷の人に宇治知麻呂がみえる。
 猪名部は宣化天皇の子孫である猪名氏(威奈真人)所管の部民とする説もあるが、明らかではない。雄略朝に猪名部真根という大工がいて、精妙な技術を誇ったという。猪名部は伊勢・出雲のほか、足羽郡にも若干みえる。
 六人部は、美濃に多く分布しているほかは、山背に一例みえるのみである。ほかに六人部東人という医師が、天平勝宝元年(七四九)、東大寺領荘園占定のために越前国使の一人として立ち会っており、そのあと天平勝宝七年にも越前国医師として文書で確認できる。文書や木簡には丹生郡のものとして六人部が四例みられる。
 史部は史戸とあわせても、摂津・備中に数例がみえるにすぎない。天平勝宝五年六月十五日以前に、丹生郡勝郷戸主史部得足の戸口である大屋子千虫が仕丁として貢進されている(文二四)。
 足羽郡では、まず鳥部であるが、鳥の飼養か捕獲に関係した部であろう。ほかに山背に二例みえるのみである。
 勝部は「カチベ」か「スグリベ」であろうが、おそらく後者であろう。勝は渡来系の姓に由来するものとみられており、その所管の部民であろう。出雲に多くみられ、ほかには大和とこの越前に各一例あるのみである。
 音太部は「オトホベ」と訓むのであろうが、これもその職掌や起源について明らかではない。居住地のわかるのはこの一例のみである。なお表14の足羽郡に挙げた丸部足人・物部安人・勝部烏・音太部鳥万呂の四例は、郡名を明記していないが文書の性格からおそらく足羽郡とみてよいであろう。
 出雲部は出雲・山背・筑前・備中などに分布をみる。郡司は譜代任用が原則であったので、足羽郡主政出雲部赤人は当郡の出身と考えられる。出雲部の起源として、継体天皇の皇女出雲皇女の名代という一案を挙げておく。
 刑部は「オサカベ」と訓む。美濃・出雲・下総・山背・上総・豊前・尾張・武蔵・肥後・伯耆・遠江などに広く分布している。足羽郡にも六名を数えるから、比較的分布の多い地域の一つである。允恭天皇の皇后オシサカノオホナカツヒメの名代といわれている。刑罰関係の雑役にあたった集団とは考えられないのであろうか。
 忌部については、先に敦賀郡の伊部でふれたが、やはり斎(忌)部氏所管の部民であろう。阿波・紀伊・下総に分布するが数は少ない。
 磯部は、伊勢・尾張・駿河・上野・相模・下総・隠岐などに分布している。石部と同じという見方もあるであろう。石部は、美濃を主とし、伊勢・伊賀・尾張などに分布している。なお坂井郡に磯部郷がある。
 蘇宜部は蘇我氏所管の部民であろう。山背・美濃に分布しているが、数は少ない。
 丈部は「ハセツカ(イ)ベ」と訓む。出雲・常陸・陸奥・美濃・駿河・上総・下総・下野・遠江・相模・佐渡・越中・武蔵など東国に広く分布するが、分布の最も多いのは出雲である。阿倍氏所管の部民とする説もある。
 伊宜部は「イガベ」と訓み伊何我部とも記される。一般に、崇神天皇の皇女伊賀比売命の名代とされている。山背にもあるが、越前に最も多く分布する。
 酒部はおそらく酒造に関与した手工業部民であろう。下野に最も多く、ほかは近江・越前にみえるのみである。なお酒人部は美濃と越前江沼郡に分布する。
 私部は「キサイベ」と訓み、下総・尾張・但馬・因幡・備中・信濃・丹波・越中・出雲・播磨などに分布する。古くは歴代皇后それぞれの名代の民を置いていたのを、ある時期(とくに敏達朝)以後は「私部」として統一するようになったとの説がある。
 生部は「イクベ」とも訓むが、一般に「ミブベ」と訓み壬生部と同一のものと考えられている。美濃・出雲・筑前・駿河・備中・丹後・伊豆などに分布する。なお壬生部は武蔵・下総・美濃などに分布している。皇子の資養に従事した部民とされる。
 綾部は、綾の生産に携わった品部であろう。人名ではなく地名としてみえるだけである(寺二など)。もし漢部と同一のものと考えれば、備前・美濃・甲斐などにも分布することになる。
 白髪部が一例みられるが、それは清寧天皇の名代かもしれない。白髪部は、山背・備中・武蔵・上総・美濃・遠江に分布し、そのなかでも山背に最も多い。
 坂井郡では、大領品遅部君(公)広耳が有名であり、天平五年「主政无位品遅部」(公三)として出てくるが、天平宝字元年には「大領外正六位上品遅部君」(寺七)としてみえ、「君」の姓が与えられていることと官位の昇叙との関係が注目される。出雲・但馬にのみみえる。通常「ホムチベ」と訓み、垂仁天皇の皇子誉津別の名代とされている。『上宮記』にみえる継体天皇系譜で祖とされる凡牟都和希王は、ホムタワケ(応神天皇のこと)と一般に理解されているが、垂仁天皇皇子とみることも可能であり、その名代が越前に分布することは注目される。
 椋橋部は「クラハシベ」と訓み、倉梯宮に都した崇峻天皇の名代とされる。武蔵・丹後に分布する。倉橋部と同一とみても、信濃・河内に少数みえるだけである。
 葛原部は「フジワラベ」と訓み、允恭天皇の皇妃衣通郎女(『上宮記』逸文には布遅波良己等布斯郎女)の名代とされる。これは越前に二例みえるのみであるが、藤原部を同一とみなすならば下総・武蔵に分布することになる。
 大野郡では、石木部と考えられるものがみえるが、またほかに類例をみない。なお、坂井郡の郷名として、『和名類聚抄』にはみられない「石木部里」が木簡で確認されている(木補五四)。
 以上が、越前の部民であり、越前のみにみえる部民もあるが、全体として強い独自性はみられないように思われる。しかし、これらのほかに、史料にみえない部民も重要ではないかと思われる。もちろん史料的な制約はあろうが、たとえば越前に玉作部・語部などがみられないことが注目される。とくに玉作は、弥生時代から古墳時代を通じて越前で盛んであっただけに、重要な意義があるのではないかと考えられる。



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