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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    四 迫る力役と貢納
      労働力の徴発
 六世紀から七世紀前半くらいまでヤマト朝廷の地方支配は、国造を介する間接的なものであったと考えられる。越前・若狭ももとよりその例外ではありえなかったであろう。しかし皇極く・天皇元年(六四二)に、越へも近江とともに人夫の徴発を目的とした「国司」(律令制下の国司に先立って各地に派遣されたヤマト朝廷の臨時の使者、以下「国司」と記す)が来たことが注目される(『日本書紀』皇極天皇元年九月乙卯条)。こうした「国司」は、これより三年前、舒明天皇が百済宮・百済大寺造営のために東国にも西国へも送られていたが、百済大寺は建立直後に焼失したので、前年末に没した天皇のあとを嗣いだ皇極女帝が、即位後早々に百済大寺再建事業を計画して送ってきたのであった。そして、この直後には飛鳥板蓋宮造営のための徴発を目的とした「国司」が安芸から遠江にわたって派遣されたのであった。もっともこれらの「国司」の派遣や改任をめぐってヤマト朝廷の内紛は激化した。これらによって、労働力の徴発が直接越に及んできたと考えられる。



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