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 第二章 若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透
    三 ミヤケと部民
      若狭の部民
 地方の部民の呼称と分布を知るために、八世紀の史料が用いられることが多い。しかしこれにも限界があり、部民制が行われた六、七世紀よりかなりのちの史料であることや、史料の残り方には当然偏りがあることなどの難点がある。
 若狭では、文献史料はないが木簡の出土例が豊富にある。その遺存資料をまとめれば表13のようである。それらの部の称に関して、若干の説明を加えておこう。

表13 若狭の部姓者(7〜8世紀)

表13 若狭の部姓者(7〜8世紀)
 若倭部は出雲に非常に多くみられる部名である。出雲以外では、美濃・近江・能登に少数例をみるにすぎない(以下、若越以外の分布は『日本古代人名辞典』による)。この部名はワカヤマトネコヒコオホヒヒ(開化天皇)の名代であるという説がある。
 竹田部については、ほかにあまりみられず、わずかに上野・山背に一例をみるのみである。敏達天皇と豊御食炊屋姫(推古天皇)との間に生まれた竹田皇子は六世紀末か七世紀初めの人物で、かなり新しい子代の例となる。和尓部(丸部)は、中央豪族和珥氏所管の部民であろう。美濃・尾張・越前・甲斐・備中・出雲などに分布する。
 海部は、漁業や海運に携わった部民であろう。海直・海部直は広く分布しているが、とくに丹後の海部直は篭神社(京都府宮津市)の系譜によって知られている。海部は出雲・因幡に最も多く分布し、豊前・豊後・肥前・紀伊・隠岐・三河・阿波などにもみえる。日本海側に分布が多いのが注目され、越前では海部郷(坂井郡)の地名もある。
 中臣部は中央豪族中臣氏所管の部民であろう。筑前に多く、そのほか越前・常陸・下総・下野・越中・美濃・豊前にも分布する。
 五百木部は「イホキベ」と訓むのであろう。景行天皇の皇子五百木入日子命の子代とする説もある。また、伊福部(伊福吉部とも書く)と同じで、金属加工に携わった職業部民ではないかという見方も生まれている。五百木部は美濃に最も多く知られるが、これは戸籍が残存しているためであろう。伊福部は出雲・因幡をはじめ美濃に多く、遠江・尾張にも分布する。このように伊福部も美濃にかなりみられることは、五百木・伊福を同一とみる推定を強めるものであろう。なお平城宮跡出土木簡に越前坂井郡のものとして「五百木部」がみられる。
 額田部は、岡田山一号墳(松江市)出土の大刀銘に「額田部臣」云々とみえる。応神天皇の皇子額田大中彦の子代とみる説が有力なようだが、額田部皇女(推古天皇)の名によるとの説もある。しかし、岡田山一号墳の年代観にも関わらせて、その設置年代については後考を待ちたい。額田部連の名はすでに『紀』の欽明天皇二十二年(五六一)条にみえている。筑前・出雲・上野・上総・常陸・播磨・長門・石見・肥後などに分布している。
 矢田部は、応神天皇の皇女で仁徳天皇の妃となった八田皇女の名代ともされる。これは『記』仁徳天皇段に、「故、八田若郎女の御名代として、八田部を定めたまいき」とあることによる。美濃・駿河・上野・佐渡・備前・山背・紀伊・伊勢・伊豆・下野・肥前などに広く分布している。
 粟田部は、和珥氏同族の粟田氏所管の部民とされ、ほかに美濃に一例知られるのみである。三方郡能登郷に粟田公麻呂・粟田荒人などの名がみえることによれば、粟田氏が若狭に何らかの関係をもったとも考えられる。なお今立郡今立町に粟田部の地名があるが、関連は明らかでない。
 私部は田名遺跡(三方町)出土木簡にみえる。



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