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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
    三 王者の棺―石棺―にみる地域色
      越前の刳抜式石棺の編年と他地域の影響
 越前で古墳時代の前期後半から後期にわたって二百数十年使用され続けた石棺は、時期によってその特徴を次のようにまとめることができる。
 T期(四世紀第V〜第W四半期) 小山谷石棺→牛ケ島石棺(丸岡町)→山頂古墳石棺(福井市)→小山谷古墳石棺と変化する(図25)。身・蓋ともに半円形をなす小山谷石棺・牛ケ島石棺が古く、蓋が半円形で身が舟形をなす山頂古墳石棺が過渡期で、蓋が屋根形で身が舟形をなす小山谷古墳石棺は新しい。すなわち、割竹形石棺から舟形石棺への変化がきわめて自然になされていることがわかる。ただ、割竹形石棺の牛ケ島石棺をみると、縄掛突起や棺身に線刻の鋸歯文や平行線文があり、両小口端がほぼ垂直であることなどから、この石棺の源は、大阪府柏原市の安福寺石棺(この石棺は香川県綾歌郡国分寺町の鷲ノ山石で製作されている。棺蓋の側面に線刻の直弧文帯をめぐらしている)の被葬者を介して、讃岐(香川県)の割竹形石棺の影響を受けていると考えられる。山頂古墳石棺は棺身の周囲に直弧文帯をめぐらし、棺底の端部に造り付けの枕をこしらえている。これは小山谷古墳石棺にもみられる。小山谷古墳石棺の蓋の表面には、八面の鏡が浮彫りされている。石棺の造りはたいへん精巧である。石棺は、山頂古墳石棺のように竪穴式石室に置かれるか、小山谷古墳石棺のように直接土中に置かれるかのどちらかである。丹後の蛭子山古墳(京都府加悦町)の舟形石棺の形態は、山頂古墳石棺に類似し、直接土中に石棺を置くことは小山谷古墳石棺と同じである。石棺工人の交流のあったことは間違いあるまい。
図25 越前における I 期石棺の変遷

図25 越前における I 期石棺の変遷

 U期(四世紀末・五世紀第T〜第W四半期) 竜ケ岡古墳石棺(福井市)→西谷山二号墳二号石棺(福井市)→同一号石棺→泰遠寺山古墳石棺(松岡町)→石舟山古墳石棺(松岡町)→二本松山古墳二号石棺(松岡町)と変化する。身は舟形をなし、蓋は屋根形をなす。屋根の棟幅は、新しくなるにつれて広くなる。石棺の装飾文様や造り付けの枕はなくなる。竜ケ岡古墳石棺は、九州の向野田古墳石棺(熊本県宇土市)の影響を受けているようである。U期の石棺の棺床に、排水孔(棺床から棺外へ通じる穴で、棺内の液体を棺外へ排水するため設けられたもの)のみある石棺(西谷山二号墳一・二号石棺)、排水孔と中央溝(棺床の中軸線上に造られ、排水孔に通じる溝で、液体をより早く棺外へ排水するため設けられたもの)のある石棺(泰遠寺山古墳石棺・石舟山古墳石棺)、排水孔と中央溝と側溝(棺床の側端に造られ排水孔に通じる溝で、液体をより早く棺外へ排水するため設けられたもの)のある石棺(二本松山古墳二号石棺、福井市の宝石山古墳石棺・免鳥石棺)の三種類があり、順に新しくなり、それぞれ五世紀第U四半期・第V四半期・第W四半期に比定される(図26)。これら排水孔(溝)は他地方にも若干認められるが、系統的に発達しているのは越前をおいてほかにはみられない。排水孔出現の契機は、追葬が行われるようになって、石棺を開いたとき棺内に水などの液体が溜まっていたので、これを排出する必要性から造られたのであろう。それが、石工の工夫により漸次発達したのであろう。石棺の造りはT期に比べて粗雑になる。また、石棺内に二体合葬例が出現する。竜ケ岡古墳石棺内には熟年女性骨と青年骨、西谷山二号墳二号石棺内と宝石山古墳石棺内には熟年男性骨と熟年女性骨があった。現在出土状況が明らかな石棺はすべて土中に直接置かれていた。
図26 排水孔(溝)の変遷

図26 排水孔(溝)の変遷

 V期(六世紀第T〜第W四半期) 二本松山古墳一号石棺→新溜古墳石棺(福井市)→春日山古墳石棺と変化する。石棺の造りはU期と比較するとより粗雑になる。すなわち、蓋の頂部が平らになり、U期にみられた排水孔(溝)はなくなる。また、二本松山古墳一号石棺と新溜古墳石棺は直接土中に置かれる。新溜古墳石棺内には五〜六体分の遺骸の合葬がみられた。春日山古墳石棺は、刳抜式・横口式舟形石棺と称すべきものであるが、これは出雲の横口式家形石棺の影響を受けている。出雲のそれは九州の影響を受けている。春日山古墳石棺は横穴式石室内に置かれている。
 石棺の変遷と他地域の影響について概観してきたが、四世紀第V四半期に出現した越前の広域首長墳の石棺は、ヤマト政権を介して讃岐の石棺工人を得て造られたと推測したが、四世紀第W四半期初めには丹後の広域首長との交流を深め、五世紀第T四半期には九州の広域首長との交流を深めたことがわかる。そして、六世紀第T・第W四半期初めには、出雲の広域首長との交流がはかられたことがわかる。ただ、ヤマト政権の大王や彼と親密な首長などに採用された長持形石棺や家形石棺が越前にまったくみられないことは注目すべきである。越前の石棺は、当初は別にして、それ以後は日本海を通して丹後・出雲そして九州の石棺と親縁な関係にあり、そのなかで地域色を発揮したことがわかる。



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