Fukui Prefectural Archives

山本条太郎につながる家を興した奥女中

コラム#ふくいの記憶に出会う

 2023年3月に刊行された福井県文書館の資料叢書19『福井藩士履歴』11には、「山本2」家の最初の人物に「吉田友作養家之伯母」が掲載されています。この「伯母」の養子となった「吉田留吉」が「条悦」と名前をかえ、その半年後に改姓して「山本条悦」を名乗って山本家が始まっていました。興味深いのは、この「山本条悦」が明治期から昭和期にかけて活躍する実業家で、福井県下選出の衆議院議員でもあった山本条太郎(1867-1936)の父であったことです。その翻刻部分を改めて見てみましょう(叢書の編集方針に基づいて、体裁は変更・編集されています)。


吉田友作養家之伯母 *「御 先物頭 (朱書) 」小栗仁右衛門組吉田友作養家之伯母

一嘉永五子六月廿五日

其身一生御扶持方弐人扶持被下置候様此度願之通養子被仰付、壱人扶持御増、都合三人扶持之御坊主御雇被仰付候

吉田留吉 表御坊主御雇 但席西尾長斎次

一三人扶持

同日左之通名替

吉田条悦

     

嘉永五子年十一月十七日小坊主被仰付候

同年十二月廿八日左之通改 (姓)

吉田事

山本条悦

   

*冒頭の付箋には、原則としてその家の最後の人名が書かれており、ここでは創始者の名がわかるよう付箋をめくって撮影しています。

 

 山本家の創始者となったのは、名前の記載がなく「伯母」とのみ記された女性でした(画像1画像2)。1852年(嘉永5)6月にその身一代限りで2人扶持を下され、同時に養子をとったことで1人扶持が加増され、卒身分(小算・坊主・下代など)の藩士として一家を立てたことがわかります。

画像1
画像2

画像1、2 山本家の「吉田友作養家之伯母」と山本条悦 「新番格以下 五(ヤマフコエ)」松平文庫、当館寄託A0143-01013(⇒デジタルアーカイブ 画像1画像2

 こうしたことが可能であった女性は、奥女中以外にはほとんど考えられません。「大奥女中分限帳」に履歴が掲載されている女中の中には、寛恭院(藩主斉承の妹謹姫、阿部正弘室)付の 末頭 すえがしら で同じ1852年の11月に剃髪し3人扶持を下された奥女中「かや事 常善」がいます(画像3)。

 「かや」は、年寄「駒野」とともに1837年(天保8)に翌年福山藩阿部家へ嫁ぐ謹姫付の末頭格の女中となり(画像4)、謹姫の死去(52年8月)によって「駒野」とともに福井藩松平家に戻され、11月に「常善」という尼僧名を名乗って老後の生活が保障される比丘尼となりました。同じ11月に入れ替わるように養子「吉田条悦」が小坊主を仰せ付られており、この「かや」が「伯母」であった可能性が高いと考えられます。江戸本芝2丁目肴屋市兵衛の娘で1817年(文化14)に召抱えられてから(画像5)、35年という長い期間奥女中を務めた「かや」の履歴短冊は3枚にわたっています。

 奥女中の奉公は一代限りを原則としていましたが、その功績から養子をとって家を立てることが認められる場合がありました。これを 名跡立 みょうせきだ てと呼び、大名家の家臣団にはこうした奥女中にルーツをもつ家が、一定数存在しました(柳谷慶子『江戸のキャリアウーマン-奥女中の仕事・出世・老後』2023年)。

画像3 画像4 画像5
(デジタルアーカイブ 画像3 画像4 画像5

画像3~5 「かや事 常善」の履歴札 「大奥女中分限帳」松平文庫、当館寄託A0143- 01332

 その多くは奥女中の筆頭である 年寄 としより 勤めた人物であり、 当館企画展示「発掘!明治を拓いた意外な福井藩士たち」(2018年)で士分として家を立てた女性として紹介した「磯岡」(北村養寿)、「歌島(哥島)」(土居延寿)、「山沢」(山沢静寿)の3名は、いずれも幕末の福井藩主松平慶永(春嶽)付の年寄を勤めた奥女中でした。

 これに対して「かや」のような末頭クラスが藩士として一家を興すことはかなり少なく、他家へ嫁いだ姫に付き随った女中への恩顧的な対応としても注目されます。なお、「新番格以下」という卒身分の藩士も家督相続というかたちで家の継承は認められていなかったのですが、「立替」の手続きを経て家として管理され、事実上世襲されていました(森下徹「福井藩の下級家臣団」福井県文書館資料叢書16『福井藩士履歴』8解説、2020年)。

 『山本条太郎伝記』(山本条太郎翁伝記編纂会、1942年、p. 2)では、画像1と同じ「新番格以下 五」と思われる「松平家の記録」が引用されていますが、「伯母」にかかわる冒頭の記載をなぜか吉田留吉(山本条太郎父)にかかわるものとして紹介しています。しかし、資料からは1852年(嘉永5)6月25日に扶持を下されて養子をとったのは、あきらかに「伯母」であり、その養子が留吉であると読めます。山本家の創始者は奥女中だったと考えられます。

 奥女中としての「伯母」の人脈が活かされたためでしょうか、その後吉田留吉(山本条悦、条太夫、条助、武)は表坊主から奥坊主・小寄合格・小算格(御召料方手伝、小道具方手伝兼)などの奥向の役務をへて1869年(明治2)には家従となっています。なお、『山本条太郎伝記』では、母みつの姉その子(1915年に75歳)が「福井藩の御殿勤めをしてゐた」(p.18)としていますが、1852年(嘉永5)に藩士家を興した奥女中としては若すぎ、「伯母」とは別の人物であったとみるべきでしょう。

 奥女中の名跡立てについて詳細な研究が進んでいる鳥取藩池田家では、明治中期に編纂された「藩士家譜」1,604家中、奥女中に由緒があって創設された家は84家を数え、全体の5%におよんでいたことが明らかになっています。そのうち59家(7割)が18世紀以降での名跡立てでした(谷口啓子『武家の女性・村の女性』鳥取県史ブックレット14、2014年)。

 これと福井藩を比べると、奥女中の名跡立てが確認できたのは、幕末から明治初年において士分で3家(1009家中、福井県文書館資料叢書9~14掲載)、卒身分で前述の山本家1家(475家中、福井県文書館資料叢書16~21掲載予定)のみであり、かなり少なかったといわねばなりません。ただ、もとになっている資料である「剥札」「士族」「新番格以下」等は、江戸後期の藩の人事管理を目的に作成されたもので、中期以前の家臣の記録が抜けていたり、非常に簡略であったりする特徴が見られます(吉田健「幕末維新期の福井藩人事関係資料(松平文庫)について」福井県文書館資料叢書9『福井藩士履歴』1解説、2013年)。このためより古い時代に成立した藩士の召出しや取立てに主眼を置いた資料を見直すと、まだ光があてられていない奥女中にルーツをもつ家が見出だされる可能性があります。

(柳沢芙美子(2023年(令和5)4月6日作成)