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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

下馬町の地名の由来は?

下馬町の地名の由来は?

 地域のことを調べる際のテーマの一つに「地名の由来」があります。珍しい地名の場合、その由来を知りたい人は特に多いようです。

 県文書館は福井市下馬町に所在しています。「しもうま」でなく「げば」と読む町名としては、全国でも宮城県多賀城市と福井市の2か所にしか確認できない珍しい地名です(昭和48年までは愛知県一宮市にも存在)。では、その由来は地名辞典でどのように説かれているのでしょうか。まずは『日本歴史地名大系18福井県の地名』(平凡社,1981)の「下馬村」の項目からみてみましょう(p281)

「足羽社記略」は「下馬村、東シテ去足羽山二十町也、乃チ当社ノ神前也、故ニ昔ノ日相往還スル者、畏敬神威、令従此処下馬シ去ラシム矣、然フシテ渉足羽川、待合村ニシテ乗ラシム、今云フ町屋村也(中略)其ノ下乗ノ間、直チニ計ルニ二十町余」と記し、「帰雁記」も足羽明神(現足羽神社)を述べる中で「麓より遥に隔て下馬の郷といふは往来の古道なり。此神社の下馬の所なりと云伝へたり」として、村名の起源を足羽明神との関連に求めている。

 この「足羽社記略」(X0142-01523)とは、同社神主の足羽敬明による享保2年(1717)頃の著作で、祭神の継体天皇ゆかりの地名に考察を加えた地誌(地理書)です。その信頼度は「種々の牽強付会を試みたる者」(吉田東伍『大日本地名辞書』)、「でたらめな考証」(杉原丈夫『越前若狭地誌叢書続巻』松見文庫,1977)など、かなり手厳しい評価がなされています。

山内秋郎家文書「足羽社記略」(X0142-01523)

 下馬村は最も近いところでも足羽神社から3km弱の距離にありますが、それを神前とし、ここを通る者が同社の神威を畏れ敬って、ここから下馬したとするのです。さらに足羽川をはさんだ北4km弱に位置する町屋村でようやく馬に乗れたとする説明は、確かにこじつけの感があります。

 一方の「帰雁記」(X0142-00294)は、福井藩士の松波正有が、正徳2年~享保6年(1712~21)頃に著した地誌で「享保年間の福井藩の史跡調査が本書の成立に関係がある」(『日本歴史地名大系』)と推測されています。最も古い「越前国絵図」では、下馬村を赤色の道が貫いていて、同村を「往来の古道」が通っていたことは確かなようです。それでも、遠く隔たる地を足羽神社の「下馬の所」と説明する点は素直には首肯できないところがあります。

山内秋郎家文書「帰雁記」(X0142-00294)

 つぎに『角川日本地名大辞典18 福井県』(角川書店,1989)の「下馬〈福井市〉」の項目に目を転じてみましょう(p465)。

地名の由来は足羽明神のふもとから遥かに隔て当地に古道が通じ、もと足羽神社の下馬の所の意という(帰雁記)。また、朝倉敏景が鎮守の社前で落馬したので神威を恐れ、下馬札を設けて以来下馬と称したともいう(県神社誌)。

 ここでは『福井県神社誌』(福井県神職会,1911)を典拠にした朝倉氏に関する異説が目をひきます。同書編者の島津盛太郎は、「緒言」で「県備付の明細書」を参照したと記していますが、この「明細書」こそが資料群「旧福井県庁文書」(A0300 当館蔵)に含まれる「神社明細帳」にあたります。

「神社明細帳」は明治12年(1879)の政府の命令で調製され、昭和20年(1945)頃まで県庁で現用された公文書です。当該神社の氏子総代や戸長が祭神や由緒などを取りまとめ、それらを県が集約して簿冊とし、県と国とで同じ物を1冊ずつ管理しました。つまり、ここに説かれる由緒は地元に伝わってきたものといえそうです。では、「越前国足羽郡神社明細帳 全」の下馬村・春日神社の箇所に記された由緒をみてみましょう。

 天平年中創立ニテ、八重巻神社ト称シ、往古ハ村名這上リ村ト称ス、文明年中、当国斯波氏ノ臣朝倉敏景社前ニ於テ落馬セシヨリ、神威ヲ恐、下馬札ヲ設ク、依テ村名改テ下馬村トス、其后洪水、右社流レテ吉田郡八重巻村ニ止ム、然ル処、下馬村大樹上ニ夜毎ニ放光アリ、村民恐懼シテ是ニ近付者ナシ、或夜老翁出顕シテ云ク、樹上ノ光ハ勿怪ムコト、村守護神天児屋根命ナリト云テ老翁忽然トシテ消失ス、依テ村民樹上ヲ見ルニ将ニ木像アリ、是ヲ祭テ氏神ト定メ、春日神社ト号ス

旧福井県庁文書「越前国足羽郡神社明細帳」A0300-00003

 朝倉敏景は、現在では英林孝景(1428~81)として知られる人物で、一乗谷を根拠地としていました。江戸時代、下馬村を通る道は一乗谷辺と主要道である北陸道とを結ぶものでした。したがって、時代を遡って、孝景がこの村の八重巻神社前で落馬したことから、その神威を恐れて下馬札を立てたため、村名を這上リ村から下馬村に改めたとする説はそれなりに説得力を持つように思われます。また、「神社明細帳」の記載は、明治初期に下馬村に存在した春日神社の由緒を言い立てたものではなく、古い時代にこの村から洪水で流されてしまった八重巻神社の神威を説く点もかえって信憑性があるように思えます。

 新しい地名でない限り、由来の「真実」はわからないことが多いようです。しかし、戦前の公文書中に、このような形で地元に伝わる地名の由来が説かれていることは、改めて注目されてもよいのではないでしょうか。

長野 栄俊(2022年(令和4)10月30日作成)