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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

松平春嶽と松栄院付女中の秘密

目 次

  1. 秘密の「遺髪」
  2. 秘密の「遺髪」を埋めた「小さき御墓」
  3. 春嶽と松栄院との出会い

1.秘密の「遺髪」

 明治10年代(1877~1886)中頃、松平春嶽は随筆「真雪草紙」(明治13年起稿、同16年脱稿)の中で、安政4年(1857)のある秘密を語っています。

○松栄公遺髪 松栄公逝去せられ給ひし時、余ハ看護のためニ侍座せり。二日程にて御入棺の式あり。其前公の御中臈勤めしき尾と云ふ人あり。比丘尼ニなりて放光院と号す。御住居中の人材也。余ハ放光に内々依頼して、公の御遺髪を請求せり。放光院ことの外よろこひて、人しれす、ひそかに御入棺前ニ、公の御髪を少し剪りて紙包にし、余に呈す。余もひそかにこれをひめ置たり。後ニ銅板ニて包み、桐の箱へ納め、天梁公御配偶なるを以て、天梁公(割注「越前運正寺」)御墓の横へ納めて、小さき御墓を造立せり。松栄公も御本懐と思召候ハんと想像せらるゝ也。
(松平春嶽全集編纂刊行会編『松平春嶽全集(1)』〈復刻本1973年、原書房〉102頁・103頁)  

 「松栄公」は将軍徳川家斉(いえなり)11女で福井藩主松平斉承(なりつぐ)正室の浅姫です。斉承が亡くなった天保6年(1835)閏7月2日以後は落飾して松栄院と称していました。
斉承は春嶽の先々代にあたります。そして春嶽は養子ですので、春嶽と松栄院は養孫と養祖母という間柄になります。
その養祖母松栄院が「逝去せられ給ひし時」、春嶽は看護のためにそばにいて最期を看取ったそうです。安政4年(1857)閏5月19日(記録上は10日)、松栄院は55歳、春嶽は30歳でした。
それから「二日程」、春嶽が松栄院の女中を勤めていた放光院(き尾)に松栄院の遺髪を欲しいと「内々」に頼んだところ、放光院はとても喜び、「人しれす、ひそかに」納棺前に松栄院の髪を切り、紙包みにして渡してくれたといいます。
そして「後ニ」、春嶽はそれまで「ひめ置」いていた遺髪を銅板で包み、桐の箱に入れ、運正寺(福井)の「天梁公御墓の横」に安置して「小さき御墓」を建てたというのです。 「天梁公」は松栄院の夫斉承です。春嶽は松栄院も本望だろうと結んでいます。
この松栄院の女中を勤めていた放光院は、いつの頃からかわかりませんが、元幕臣で漢詩人の向山黄村(むこうやま・こうそん)のもとで暮らしていたようで、明治17年(1884)4月24日に放光院の訃報に接した春嶽は、翌日に黄村のもとへ女中を遣わし、喪中見舞と誄詞(弔辞)を送っています。

○同日向山黄村の許江佐藤崎尾を遣はし、向山放光院の喪を吊せしめらる、放光院ハ多年浅子君に奉仕せし女中なり、此時年給一年分の金額金七円・時花(割注「一筒」)別に慶永公・勇子君より金千疋・時花(割注「一筒」)・香木(割注「二炷」)を贈られ、又慶永公誄詞を遣はさる
  誄詞
嗚乎哀哉嗚乎痛哉、向山放光ヨ、積年余祖母松栄公主ニ従事シ、日夜奉輔賛勉強尽力怠ラサル数年一日ノ如シ、特ニ公主ノ病痾ニ罹リ薨去前後ノ配労ハ数十人女中ニ冠タリ、其懇厚ノ至誠無比ノ功労ハ慶永親ク見聞スル所ニシテ、其恩恵ハ忘ント欲スレトモ今ニ忘レサルナリ、(後略)
(『越前松平家家譜 慶永5』福井県文書館資料叢書8〈福井県文書館、2011年〉184頁)

 春嶽は誄詞で長年にわたる松栄院への勤勉な奉公ぶりを称え、そして「特ニ公主ノ病痾ニ罹リ薨去前後ノ配労ハ数十人女中ニ冠タリ」と評しています。
「薨去前後ノ配労」には「遺髪」も込められているのでしょうか。

2.秘密の「遺髪」を埋めた「小さき御墓」

 こちらは「後ニ」春嶽が「天梁公御墓の横」に松栄院の「遺髪」を埋めて「小さき御墓」を建てたという運正寺の図面です(A0143-21462松平文庫「運正寺指図」)。

山中に並ぶ墓の中の一つに「天梁院様」とあります。これが「天梁公御墓」でしょう。

ただ、こちらは弘化4年(1847)8月、松栄院が亡くなる以前に作成された図面ですので、「遺髪」はこれから10年後、「小さき御墓」はそれからさらに後の話になります(「天梁院様」の同一区画内にある「巍光院様」は斉承の実弟善道)。
しかも、山中に並ぶ墓はその後、改葬されていますので、現在は図面の場所に「天梁公御墓」も「小さき御墓」もありません。
そのため“春嶽が「小さき御墓」を建てた”その真偽を確かめることはできない(1)のですが……「小さき御墓」には碑文が記されていたらしく、その碑文の記録がありました(A0143-02236松平文庫「祖妣徳川夫人碑陰記」)。
「祖妣」は亡祖母、「徳川夫人」は松栄院、「碑陰」は石碑の裏面に記した銘文、その記録です。

末尾に「今茲五月十日、遭其十三忌、故埋遺髪於福井運正寺祖考墓側」とあり、日付は「明治二年五月某日」になっています。
「後ニ銅板ニて包み、桐の箱へ納め……」の「後ニ」は松栄院の「十三忌」明治2年(1869)のことでした。
明治2年の5月、春嶽は東京にいます。
ただ、前々月の3月6日から前月の4月9日までは福井にいて3月25日と4月7日に運正寺へ参詣しています。
その折に建てるか、あるいは手はずを整えるか、していったのでしょうか。

3.春嶽と松栄院との出会い

 春嶽が斉善(なりさわ)の養子になる前日の天保9年(1838)9月3日、幕府老中水野忠邦は福井藩家老岡部左膳を呼び出して次のように申し渡しています。

此度養子被仰出候ハヽ松栄院様御願之趣茂有之候ニ付、引移之砌大奥江登城、其節御目見御道具被下、御本丸ゟ直ニ引移可有之旨可被仰出積ニ候、此段内々申聞置候様ニ与御沙汰ニ候事   
(『越前松平家家譜 慶永1』福井県文書館資料叢書4〈福井県文書館、2010年〉4頁)

「此度養子」は「松栄院様御願之趣」のおかげでもあるので、「引移」(引っ越し)の際は「大奥江登城」して、そこでお目見えしてお道具を拝領した後で、本丸から常盤橋の屋敷へ入ってもらうことになろうから、そのつもりで……
「御願」は、その「趣」という以上の詳細な記述がないため、松栄院が春嶽を推薦したのかどうかは、わかりません。
それでも、松栄院が「御願」した、それは確かです。 直接的にしろ、間接的にしろ、松栄院が春嶽を斉善(なりさわ)の養子へと導いたといえるでしょう。
その後、春嶽と松栄院はどのようにして「遺髪」や「小さき御墓」に至る関係を築いていったのでしょうか。
松栄院。春嶽にとっても、福井藩にとっても、その存在は大きそうです。

堀井 雅弘(2022年(令和4)9月3日作成)

参考文献

竹内誠・深井雅海・松尾美恵子編『徳川「大奥」事典』(東京堂出版、2015年)「浅姫」の項目(執筆は藤田英昭氏)
本川幹男「松平慶永と福井藩政」(『越前松平家家譜 慶永 3』福井県文書館資料叢書6〈福井県文書館、2011年〉解説)

(1)「運正寺指図」とは別に明治13年(1880)に測量・作成された図面もあるのですが(A0143-21463松平文庫「森巌山御廟所之図」)、同様に「御霊屋」の輪郭までしか描かれていないため、こちらの図面でも「小さき御墓」は確認することができません。