松平文庫テーマ展36「秀康刀剣ものがたり」では紹介できなかった、秀康とゆかりのある刀剣を一つだけご紹介します。
「来派」に属する国光は、一般的に流派名を冠して「来国光」と呼ばれている刀工です。山城国(京都府)で作刀に携わり、通説では来国俊の嫡男とされています。しかし、来国俊の次男や弟、孫とする説、来国行あるいは来国秀の子であるとする説、来国友の弟子であるとする説など、多くの説があります。通称も「兵衛」「兵衛尉」「次郎兵衛」など諸説あります。
来国光の作品には、1313年(正和2)と63年(貞治2)の銘を切った刀が存在したことが分かっています。これを踏まえると、来国光の作刀期間は50年ということになります。しかし、一人の刀工としては年数が長すぎるため、初代と2代がいたのではないかと考えられています。
ただし、初代と2代の区切りは諸説あります。現存する作例では南北朝時代を境に作風の変化があることから、建武年間(1334~38年)に初代から2代への移行があったとする説が現在では有力です。
このように、「来国光」は謎の多い刀工として知られています。
刀剣は武器としてだけでなく、贈り物としても多く用いられてきました。刀剣は武士を象徴する重要な所有物であったため、贈り物として重要な役割を担っていました。
室町時代には、足利将軍家と諸大名との間で贈答儀礼が盛んに行われ、重要な儀礼の贈り物に刀剣が用いられていました。
室町時代や戦国時代に引き続き、江戸時代でも刀剣は大名から将軍への御礼として、あるいは将軍から大名への下賜品として刀剣が用いられていました。
1576年(天正4)、秀康が3歳の時、兄の松平信康の計らいで父の家康と初めての対面を果たします。この時、来国光の脇指を与えられました。
家康が岡崎城を訪れた際、信康は家康と対面している最中に於義丸(秀康の幼名)に障子を叩かせます。これを聞きとがめた家康に対し、信康は於義丸を家康の前に連れてきます。家康は非常に上機嫌で、自分の膝の上に於義丸を抱きかかえて「立派に成長した」と言いました。信康も「於義丸が成長すれば、自分の力になってくれる」と期待を寄せています。そして、家康は来国光の脇指を秀康に与えました。
このエピソードは複数の資料に残されているということから、江戸時代に福井藩内で広く知られていたと推測されます。
話の流れは4つの資料でほとんど共通しています。気になるのが「越藩史略」のみ「脇指」ではなく「短刀」としている点です。
江戸時代では現代と異なり、「脇指」と「短刀」に明確な区分はなく、現代で「脇指」とされる刀剣が「短刀」とされていることがあります。このため、資料によって「脇指」と「短刀」の表記の違いが生じているではないかと考えられます。
もちろん、「脇指」が間違いで、本当は「短刀」だった可能性もあります。しかし、この来国光の「脇指」は所在不明のため、「脇指」だったのか、「短刀」だったのか確認できないのが残念です。
三好 康太(2021年(令和3)12月23日作成