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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

福井藩?それとも越前藩?

福井藩?それとも越前藩?

 江戸時代、越前松平家が治めたのは「福井藩」?それとも「越前藩」?どちらが正しい名称でしょうか。

 福井県郷土誌懇談会刊行の書籍に『幕末の越前藩』(三上一夫著、1974年)と『幕末の福井藩』(本川幹男ほか著、2020年)があるように、同じものを指すのに研究者の間でも両方の用例が見られるのが現状です。
 同様のことは「薩摩藩-鹿児島藩」や「加賀藩-金沢藩」など各地でも確認できます。

 小学校の社会科の教科書にも登場する「藩」の名称ですが、改めて国語辞典を引いてみると「はん【藩】江戸時代に、大名が治めた土地。〔広義では、住民・機構などをも含む〕」とあります(『新明解国語辞典 第六版』)。
 ところが日本史辞典には「藩という名称は公称ではなく、(江戸時代)中期以降、儒者が幕藩体制を中国の封建制になぞらえ、諸大名を幕府を守る藩屏(はんぺい)とみるようになって、しだいに普及した」と説明されています(『新版 角川日本史辞典』)。

江戸時代を通じて、大名領は公式には「領知」や「領分」などと呼ばれ、「藩」が公的な文書で用いられることはありませんでした。
 それを示す場合には、居城(陣屋)所在地名あるいは大名の名前を組み合わせて「越前国福井領」や「松平千次郎領分」などと表記することが多かったようです。

「越前国福井領産物」

「越前国福井領産物」(松平文庫)A0143-01171

「越前国松平千次郎領分松岡家中絵図」

「越前国松平千次郎領分松岡家中絵図」(松平文庫)A0143-21356

その一方で公称ではない「藩」の用例としては、元禄15年(1702)に新井白石が諸大名家の由来を説いた「藩翰譜」が早い例とされますが、越前藩を意味する「越藩」もかなり早い段階から見られます。
 元文3年(1738)成立「越藩貴耳録」(村田氏春著)や安永10年(1781)成立「越藩史略」(梯翼章著)、天明6年(1786)成立「越藩拾遺録」(村田氏春著)など、学識豊かな藩士が著した史書や地誌の題名での使用例です。
 元来「藩」には「まがき」や「まもり」の意味があり、徳川将軍家の一族である越前松平家には、家門筆頭として「幕府のまもり」であるとの自負があり、それが早い時期での使用につながったのかもしれません。

「越藩貴耳録」

「越藩貴耳録」(松平文庫)A0143-01366

「越藩史略」

「越藩史略」(松平文庫)A0143-01369

「越藩拾遺録」

「越藩拾遺録」(福井県立図書 坪川家旧蔵)A0142-00142

 つぎに藩士の所属表記について、幕末の橋本左内を例に見てみましょう。安政5年(1858)11月7日、町奉行所への出頭命令書には「松平越前守家来 橋本左内」とあり、翌年10月7日に死罪に処せられた際の幕府からの書付には「松平越前守内 橋本左内」と記されています。
 藩士は幕府からみれば陪臣にあたるため、公的な文書では、大名の「家来」や「内」と記され、やはり「藩士」と表記されることはありませんでした。

「越前世譜 茂昭様御代下(2)」

「越前世譜 茂昭様御代下(2)」(松平文庫)A0143-01974

「越前世譜 茂昭様御代(3)」

「越前世譜 茂昭様御代(3)」(松平文庫)A0143-01975

 また、左内自身がどのように表記したかを知る手掛かりに蘭学者の門人帳があります。
 緒方洪庵の適塾に入門した際には「越州福井藩 橋本左内」と記名されており(「適々斎塾姓名録」)、川本幸民に師事した際には「越前藩」と記されています(「入門生姓名録」)。
 全国的にみて幕末段階では「〇〇藩」の自称例は増えていたようですが、ここでも「福井藩」と「越前藩」の両方の表記があったことが注目されます。
 なお、他の門人帳では「越前鯖江藩」や「越州勝山藩」の表記があり、「越前大野土井侯藩」「越前有馬侯藩」など大名の名前と「侯藩」を組み合わせた用例も見られます。
(参考:国立歴史民俗博物館「地域蘭学者門人帳人名データベース」

 さて、「藩」を公称とすることについては「維新政府が明治元年(1868)閏4月(中略)旧大名の領分を藩として、その居城所在地名を冠して呼んだとき、行政区画としての「藩」が生まれた」と説明されます(『国史大辞典』)。
 ところが同年2月25日、新政府が「金札」(太政官札)の製造を命じた際の御達の宛名はすでに「越前藩」と記されており、また本文中にも「右御用紙製造方、其藩江被仰付候」とあって、閏4月より早い段階ですでに公文書中で「藩」が使われていました。
 また、同年7月22日、同藩が藩印の完成を新政府に届け出た際の印文は「越前藩印」とあることから、この段階では「福井藩」ではなく、「越前藩」が公的に認められた名称だったようです。

「越前世譜 茂昭様御代 二(17)」

「越前世譜 茂昭様御代 二(17)」(松平文庫)A0143-01989

「越前世譜 茂昭様御代 三(18)」

「越前世譜 茂昭様御代 三(18)」(松平文庫)A0143-01990

 翌明治2年(1869)6月の版籍奉還後、各地の旧藩主は「知藩事」に任命されます。
 同藩最後の藩主松平少将(茂昭)に宛てた任命状は「福井藩知事、被仰付候事」と記され、この時初めて居城所在地名を冠した「福井藩」が公称とされました。
 その後「福井藩」の名称は明治4年(1871)7月の廃藩置県まで続きます。

「越前世譜 茂昭様御代(20)」

「越前世譜 茂昭様御代(20)」(松平文庫)A0143-01992

 近年の研究では、越前国内にあった大野・勝山・鯖江・丸岡など譜代諸藩との関係を考慮する視点から、「福井藩」を使う例が増えていますが、江戸時代には「越藩」「越前藩」の用例が優勢でした。
 これは江戸時代初期の同藩領知が越前一国68万石であり、その後領知が削減された後も、越前松平家は一藩の「藩主」というより、越前国の「国主」であるとの意識が強かったことと無関係ではないようです。
 歴史学の概念・用語としての「藩」の用例と同時代の人びとが用いた「藩」の用例との間には背景となる事情の違いも潜んでいそうです。

長野 栄俊 2021年9月30日作成

2021年10月2日(「全国的にみて」の字句を追記)