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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

こんなところにも!「浜名鈴木刃傷一件」

はじめに

 明和5年(1768)6月5日に小浜城下西津侍屋敷(城の北側一帯)で浜名多賀丞(小浜藩士の子で部屋住み)と鈴木吉之助(同藩士)が偶発的に口論から刃傷におよび、同日中に吉之助が死亡、翌6日に多賀丞が切腹するという一件がありました。

 この一件は京都大学文学研究科図書館所蔵の「雲浜厳秘録 附浜名鈴木刃傷一件」(以下、「刃傷一件」といいます)に詳しく記されているのですが、不明な点も少なからずあります(『福井県文書館研究紀要』第17号に「附浜名鈴木刃傷一件」の部分の翻刻が掲載されています)

 その一件から約半世紀後の文政8年(1825)に田中貞風(小浜藩士)が「逢昔遺談」という書を著しています。この一件は、そこにも記されていました。

 (1)「雲浜厳秘録」は聞書(記憶)、(2)「浜名鈴木刃傷一件」は書留(記録)、(3)「逢昔遺談」は聞書(記憶)です。

 性格の異なる「逢昔遺談」には、どのように記されているのでしょうか。

主要な登場人物

人物 関係 備考
1 浜名多賀丞 2と口論  3・4の子 部屋住み、16歳
2 鈴木吉之助 1と口論 藩士(6人扶持)、16歳または17歳
3 浜名源吾 1の父、4の夫 藩士(100石、御先手馬廻)、51歳
4 源吾妻 1の母、3の妻
5 中安治左衛門 2の実父 藩士(50石3人扶持、小浜御蔵奉行役)

目 次

  1. 多賀丞は「鶏卵のふはふは煮」が大好き(粕屋富之丞の話)
  2. 多賀丞の父はどんな時でも「平常の如く」(伴刈五郎の話)
  3. 多賀丞の母は「婦人には珍らしき人」(加藤祖太夫の話)

1.多賀丞は「鶏卵のふはふは煮」が大好き(粕屋富之丞の話)

 6日午前10時頃、多賀丞は自宅で藩の担当者から聞き取りを受けていました。そして午後4時頃、ついに切腹を仰せ付けられた多賀丞。年は16(数え年)です。

「刃傷一件」には……
縁側に出ていつもとかわらず話をし、ご飯もいつもどおりよく食べた、とあります。

「逢昔遺談」には……
切腹を仰せ付けられると湯浴みをし、母に「このような時に垢などがたまっていては見苦しいでしょうから、首のあたりをよく洗ってください」といって首をよく洗ってもらった。また、母から「食事はなんでも好きなもの用意しますよ」といわれると、「鶏卵のふはふは煮」を作ってもらって「沢山に」、「いかにもうまそうに」食べた、とあります。そして縁側に出て……と続いています。

ちなみに「鶏卵のふはふは煮」とは、
(1)卵と豆腐(1:1)を混ぜる。
(2)(1)をよく擦りあわせる。
(3)ふわふわ煮にする。
(4)胡椒の粉を振る。

――これは天明2年(1782)に刊行された豆腐料理本『豆腐百珍』に掲載されている「ふはふは豆腐」のつくりかた ですが、これが「鶏卵のふハふハと風味かわることなし」らしく、「倹約を行ふ人専ら用ゆ」べき料理だそうです。(1)を卵だけにして作ると、「鶏卵のふわふわ煮」になるでしょうか。

粕屋富之丞:富之丞は粕屋家の5代目富之丞利幸で、こうして切腹した多賀丞の介錯人、その人です。

2.多賀丞の父はどんな時でも「平常の如く」(伴刈五郎の話)

 5日夕方、多賀丞の父は「西津口夕番」で自宅から1kmほど離れた西津口番所(城の北口の番所)にいました。そこへ自宅にいる妻から手紙が届き――こうして多賀丞が刃傷におよんだと知った父。御番所の当番中です。

「刃傷一件」には……
駆けつけた浜名平八(非番の同僚)と交代して番所を引きとった、とあるだけです。

「逢昔遺談」には……
手紙を読み終えると、非番の同僚に宛てて交代を頼む手紙を書いて遣わせ、同番の同僚には何も言わず、また先ほどまでしていた話に戻った、とあります。

 そして、それからしばらくして「交代の某」(「刃傷一件」では浜名平八)がやってきたところで――ようやく同番の同僚に理由を明かし、交代の某に礼を述べ、「交替の礼平常の如くして」番所を引きとった、とあります。

伴刈五郎:刈五郎は詳しいことがわかりませんでした。

3.多賀丞の母は「婦人には珍らしき人」(加藤祖太夫の話)

 先に同じ5日夕方、多賀丞の母は自宅で機を織っていました。そこへ多賀丞がやってきて友人宅からの帰り道に刃傷におよんだと聞かされた母。しかも多賀丞は袴着姿で「いまから腹を切る」といっています。「刃傷一件」には…… 父に連絡して指図を仰ぐべきとおしとどめ、多賀丞が失念していた刃傷の届出を差配し、非番の同僚(浜名平八)に交代を頼んだ、とあります。「逢昔遺談」には…… 「機を織ながら」指図した。そして後日、親類に「多賀丞の話を聞いた時はとても驚きましたが、ここで取り乱しては多賀丞が動揺すると思い、冷静をよそおってそのまま機を織ったのです」と語った、とあります。

加藤祖太夫:祖太夫は加藤家の5代目祖太夫豊章で、明和5年当時、浜名家方として一件に関わっていました。祖太夫は1の粕屋富之丞の実兄にあたり、一件の後には祖太夫・富之丞の実弟が浜名家に養子入りしています。なお「刃傷一件」は、この祖太夫による書留と推測されています。

 著者の田中貞風は、最後に吉之助は「駒井安右ヱ門より五代目鈴木安右ヱ門養子」で「中安治左ヱ門三男」だったそうだが、この一件で鈴木家は取り潰しになった、と付記しています。

 聞書の「逢昔遺談」だけだと半信半疑だったでしょう。でも書留(記録)の「刃傷一件」と照らし合わせていくと、「逢昔遺談」の信頼性が高まり、「刃傷一件」の不明な点がいくつか解消されました。

 伝聞や聞書から新たな歴史像が浮かび上がることも……あるかもしれません。

 ※本コラムでは田中貞風『再考 逢昔遺談 下巻』(香川政男、1961年)を参考にしています。原本は小浜市教育委員会所蔵の酒井家文庫「逢昔遺談」です。

堀井 雅弘(2021年(令和3)7月2日作成)