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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

「明治の「馬威し」(うまおどし)

目 次

  1. 「馬威し」とは
  2. 明治初年の日程変更と短縮
  3. 「馬威し」は、いつまで行われたか

1.「馬威し」とは

 福井城下で江戸時代半ばから行われた「馬威し」は、左義長に関連する小正月の行事でした。現在でも左義長は全国で広く行われていますが、その火祭りの前日に行われた福井城下の「馬威し」は他領にも知られた勇壮なものでした。

『越前国古今名蹟考』

画像1 輪乗 『越前国古今名蹟考』1816年 松平文庫(当館保管)

 画像1はその見せ場のひとつ、左義長飾りの周りを馬で乗りまわす「輪乗」の場面です(1) 。定められたコースを完走しようとする騎馬(武士)と、これを妨害しようとする「威し人」(町人や村人、せぎ手)との間で熱気に満ちた攻防が繰りひろげられました(2)
 シンバルのような鳴り物(にょうはち、鐃鉢)や吹流しなどで馬を驚かせて行く手を阻もうとする「威し人」たち、それを押しのけて進もうとする騎馬、その傍らで騎馬を助けるために鞭を振りあげて「威し人」を制そうとする口取りの付人(駻(かん)縄取)、黒い陣笠を被って刀を担いだ警護人などが生き生きと描かれています。

『越前国古今名蹟考』

画像2 太鼓小屋 『越前国古今名蹟考』1816年 松平文庫 福井県文書館保管

左義長飾りの側には「太鼓小屋」(画像2)が建てられました。
ここには町内の子どもたちが集まって、昼夜太鼓や鉦を打ち鳴らし、笛を吹いていました。

 幕末では、「本威し」の本番の日取りはほぼ1月14日(3)、これに先立って馬を慣らす稽古「下威し」(したおどし)が、だいたい8日頃から13日にかけて行われていました(4)。藩主が在国の際には「馬威し」を上覧することもありましたし、もちろん幕末の福井藩主慶永(春嶽)も何度も観覧していました(5)。元福井藩士でのちに初代福井市長を務めた鈴木準道は「遠国からも見物に入り込む者が多く、市中は余程の賑わいだった」 (6)と回想しています。

 「馬威し」には、スポーツのようにルールが定められていました。
 「威し」の手段としては、鳴り物や大声に加えて旗や吹流し、蓑などを馬の目前に出して驚かすことが認められていました。しかし手綱や馬具に取りつくこと、障害物で進路をふさぐことは禁止されていました。 

『越前国古今名蹟考』

画像3 町屋二階の見物席 『越前国古今名蹟考』1816年 松平文庫 福井県文書館保管

本町通に面した町屋の二階は、裕福な階層の見物席と思われます。
二階の窓の敷居は赤い毛氈で飾られ、見物人の背後には屏風が立てられています。

 その攻防はしだいにエスカレートしていたようで、1828年(文政11)には馬具とともに馬に触れることも藩の触書(7)で禁止されました。このお触れでは藩主松平斉承(なりつぐ)の上覧が予定されている14日の本威しでは、桜御門内に立ち入ってもよいが不調法のないようにすること、「馬から離れておどすならば、武士たちの稽古になるので何をしてもよい」とされました。「馬威し」は「藩士の馬術を競い、軍馬の練習にもなる」(8)と考えられていたのです。

 また、この触れは30kmほど離れた越前海岸の村むらまで伝達され書き留められていたことから、この頃には城下から遠方の村びとも「馬威し」の見物に出かけることがあったと思われます。腕自慢の青年が「威し人」として参加したりすることもあったかもしれません。一方騎馬の多くは藩士の持ち馬(9)でしたので、乗手のほとんどは、番士以上の中・上層家臣の当主やその子弟でした。

2.明治初年の日程変更と短縮

 それでは、明治維新後の「馬威し」はどうだったのでしょうか。 1870年(明治3)には東京にいた春嶽を除いて、勇姫・青松院(春嶽の生母)や藩主茂昭夫妻・信次郎(のちの康荘)らが観覧していましたが、その日取りは1月7日のことでした(10)。例年より1週間ほど早まっています。

「(日記)」

画像4 明治3年の「馬威し」(6日・7日の条)
「(日記)」福井県立図書館(坪川家旧蔵)A0141-00140

「(日記)」

画像5 町在の左義長を7日までに短縮する達
「御配符留覚帳」松田三左衛門家文書(当館蔵)A0169-00643

 福井城下近郊(種池村)の坪川家の日記(画像4)をみると、6日午後に左義長飾りを立て、翌日には「左義長をはやす」とあり、飾りを燃やしていました。これにあわせて「馬威し」も7日までとされたようで、これは「従来正月式(諸行事)を15日限りとしていたが、自今7日までに引き縮めて済ますよう」(▼部分)との藩の達しによるものでした。この達しは城下や種池村などの城下周辺のみならず「町在」(福井藩領全体)に指示されていました(画像5)。

 坪川家の日記では、翌年の1871年(明治4)でも1月6日に「福井馬驚(威し)、始る」とあり、7日には「福井馬驚、今日にて相済む」と記されています。1872年(明治5)以降では、左義長飾りの設置や「ハヤシ」はありますが、馬威しに関連する記述は見あたりません。

 このように1870年(明治3)の藩の左義長の短縮命令によって「馬威し」は、1月7日までとされ、その後廃藩置県(1871年)によって藩が解体されると中止を余儀なくされました。 すでに69年(明治2)の版籍奉還にともなって家臣の給禄は3割ほどに大きく削減され、翌年から賃貸料が課せられた武家屋敷地では、売却が進んでいきます。通りに面した部分は町屋となったり、商業地に向かない部分には桑や茶、楮等が植えられたり、さらに外堀の埋立てや城郭の塀の解体が始まり、街の景観は変貌していきました(画像6) (11)。 

「(日記)」

画像6 外堀の埋立(1872年頃)『足羽県地理誌』国立公文書館デジタルアーカイブ 12ページ

1872年頃には、馬威しのルートとなった西の馬場が面していた堀、北の加賀口御門のあたり、百間堀に連なる東や南側の広大な堀が早くも埋立てられていました。

 1874年(明治7)年頃では、敦賀県は「馬威し」を「旧俗」として「維新廃藩の後、此俗全く廃す」 (12)と報告していました。

3.「馬威し」は、いつまで行われたか

 廃藩によって中止された「馬威し」でしたが、1884年(明治17)と翌85年の2年間実施されたことがわかっています。
 この再興の中心となったのは、安西関六(13)、関良平(14)の2氏で旧福井藩の馬術師範と馬事を掌る馬方でした。これに魚町辺の若連中を中心に多くの町民が賛同し、200円近い寄付金が集まったといいます。「本町薬屋二文字屋の貸家」に馬威事務所が置かれていました(表 記事番号13)。
 とくに安西関六は、福井市街南部の惣木戸の外、赤坂清光院跡(16)を購入して移住し、そこに馬場をつくって牛馬の繁殖を行っており、前年秋にはこの地で、騎馬による競技「打毬」(だきゅう)(15)を実演し、好評を博していました(表 記事番号1)。

記事番号 和暦(元号) 年月日(西暦) 記事概要
1 明治 16 18830925 3 2 福井東端 桜之馬場にて旧藩時代の打毬を開催 今の子弟は馬威と共に打毬とは果してどの様なることをするものにや知らぬ 旧藩馬術師範たりし安西関六氏 昨23日より今25日 6頭の駿馬 非常の人気 同所にて馬市があり 能登越中地方より馬の数々来る筈
2 明治 16 18831223 2 4 馬威は来る1月3日4日5日の3日間下おどし 7日は本おどし 昔しに因み元西の馬場より元片町辺へかけておどすとの事 是で幾分か景気を取直すことの出来ればよいが
3 明治 17 18840104 2 4 当市の門松 市中町々の左義長中奇麗にして大きなるは本社前 佐佳枝中町のものなり 馬威しの真壺にあたる場所柄ゆへ この左義長には念を入れしものなりとぞ
4 明治 17 18840104 3 1-2 今日より 福井町々はかの三毬打立て太鼓小屋建て 3日は久しく廃たりてその催ふしの無かりし馬威を福井の有志者 発起し興行
5 明治 17 18840109 2-3 4,1-2 福井正月景況(続) 馬威し 下おどし 当市場のあるじ安西氏父子は申すにおよばず 旧藩の別当たりし関氏 師範家たりし塚田氏など 周旋 勝木 今木屋 荒六 八百甚 生駒 吉勘 発起世話方
6 明治 17 18840110 3 3-4 福井馬おどしの景況 (前号の続き) 馬威し 7日本おどし せぎ手は4組の消防組および自余の消防各組 町々の若漢近郷近在の剛の者 数万のせぎ手 滑稽の問屋なる市端蕪屋半吉の相続息子 馬匹は拾数頭 せげよせげよと叫ぶ声 鐃八(にょうはち) 紅旗 章魚(たこ)の帽子 ブリッキ缶
7 明治 17 18840111 3 3 福井馬おどしの景況(前号の続き) 馬威 本威し 安西氏令息 幾万のせぎ手この劇しき事を演し 馬も傷まず人も傷まず また喧嘩口論の無かりし 旧藩時代の遺物よく法に叶ひしもとのは云へ・・・ 能華堂の上等菊泉壱樽 寄付
8 明治 17 18840120 3 3 当市元神宮寺町 東西屋 馬威しに何がな一儲けなさんものと 絵図 出版条例に違背
9 明治 17 18840223 3 1 かねて其の催ほしありと噂(丸岡の馬威は弥よ 20、21、22日の3日を以て施行 馬数は福井より3頭下より4頭の小数にていと本意なかりしとそ)
10 明治 17 18840517 3 2 来る十八日より晴天七日間東京三田育種場にて当地に行はれしかの馬威し興行致し度旨 本所石原町の西林弥三郎より過日其筋へ出願せりと
11 明治 17 18841219 2 4 例年の通り来年の馬威もするとかせぬとか 評議一決せず 例の小田原会議にて長延したるが 此頃漸やく相談かまとまりかゝりて多分は執行することに決したるよし
12 明治 17 18841228 2 4 屡々本紙に記載せし彼の馬威は大に旧地士人の[ ]得昨今続々の寄附□たる□□ればこのど□景気は[ ]増して盛んなる可き歟 馬の数もせぎ手の数[ ]多いときけり
13 明治 18 18850104 3 2-3 当市の馬威し 関良平・安西関六の2氏が発起 本町通りを中央と為し旧西の馬場より繰出し 京町通りと木町通りとを境に勝敗を争ふ都合に執行 馬威事務所は本町薬店二文字屋の貸家と定め 魚町辺の若連中は申すに及ばず 町々に之を賛成するものなかなか多く 馬も今年は逸物30余頭 寄付金 200円近く
14 明治 18 18850106 2-3 4,1 昨日一昨日は例の馬威し 当市西の馬場より元本町とほりは一面の雑踏 章魚(たこ)の帽子に鐃八(にょうはつ) 一昨日は7、8頭 昨日は12、3頭
15 明治 18 18850109 3 1-3 一昨日7日は当市馬威ほ本威 柵桟敷 当日は親戚□音(しるべ)を招き屏風を立て 毛氈 二階狭しと立錐の地無きまで賓客 騎馬 鬱金帽子のかんな取(駻縄取、かんなわとり)幾名 十余頭(初鞍)士族の人々は大久保、前波、稲葉、伊藤 殿乗(しんがり)は旧藩馬術師範家 伊藤又太郎 (二の鞍)殿乗は旧藩の馬術師範家安西五郎吉 少年の試乗 寒鱈 夷町の坂東小一郎が二子 見物怪我人
16 明治 18 18850211 3 例年の馬威は馬の使用上大ひに功益あり 以後怠らず催さんとするには是非地方税の幾分か補助を仰かねばならず 本年度通常県会にかの議案を下附さるゝと云ふ風説あり
17 明治 18 18851211 3 馬威 例によりて来る十九年一月の三日より七日まで最賑々しく馬威を為さんと市中の有志は今より奔走中の由(中略)在方よりも強壮なる馬を数頭借り入るゝ都合なれば何分飼料やその他の費用は嵩めど出づるところのあらざれば多少有志の寄付金を仰ぎ且つ芸妓社会よりも同く寄付金を仰かんとか
18 明治 19 18861212 3 4 馬威し(来年も例により1月7日より馬威しを為さんとて 馬持ちの連中が相談)

 84年には、3日から5日を「下威し」に7日に「本威し」が行われました。町々の消防組や近傍近在の「剛の者」が「せぎ手」として揃いの色で染め分けた手ぬぐいや法被をまとってルートとなった「丁場」に充満したと伝えています。
 騎馬の数は十余頭と往年の40から60頭に比べると少数でしたが、最初の「一の鞍」には、福井新聞社からも社員が乗り手に参加し、その援助者「かんな取(駻縄取)」は、士族の老練な馬術巧者「大久保・山崎・稲葉・原田・猪子」等が務め、殿乗(しんがり)は、馬方だった塚田氏が務めていました(表 記事番号4~7)。

 翌85年では、「一の鞍」「二の鞍」の殿乗をそれぞれ旧藩の馬術師範家の伊藤又太郎、安西五郎吉が務め、「寒鱈」と呼ばれた少年たちも乗り手に登場しています(表 記事番号15)。

 さて、この「馬威し」のようすを活写した新聞記事をみなさんも読んでみませんか。 印刷がかすれていて読みくい部分もありますが、このコラムでは紹介できなかった「章魚(たこ)の帽子」を被り「ブリッキ缶」を叩く明治の「せぎ手」たち、見物人の掛け声や通りの2階見物席のようすも描写されていて面白いですよ。

 丸岡や東京(三田育種場)でも行われたという「馬威し」(表 記事番号9・10)については、新聞記事だけでは詳細はわかりません。なにより1886年(明治19)年末の記事からは、「馬威し」がこの年にも翌年にも行われた可能性がでてきます。最後の「馬威し」がいつだったかについては、今後も別の新聞や日記・記録類を調査していく必要があります。

柳沢 芙美子(2021年(令和3)2月25日作成)
〃 (2021年(令和3)3月5日加筆修正)
〃 (2021年(令和3)5月4日加筆修正)

脚 注

  • (1)福井藩士高畠信喬(夢蝶)が描いた「三毬打」(さぎちょう)の挿絵です(『越前国古今名蹟考』1816年 松平文庫(当館保管)A0143-21215-007)。
  • (2)江戸時代の「馬威し」の事例やその変遷については、印牧信明「福井城下の正月行事『馬威し』について」(『福井市立郷土歴史博物館研究紀要』11、2003年)の成果に拠っています。
  • (3)1844年(弘化元)には、藩主慶永の発駕にあわせて「本威し」が1月10日に前倒しされました。
  • (4)幕末には13日を休みとする通例があったようです(「福井市左義長馬威模様書」松平文庫A0143-21625、『福井市史』資料編9、1994年、p.608)。
  • (5)たとえば、松平慶永(春嶽)の「馬威し」の上覧は以下の資料でわかります。
    1844年(弘化元)1月10日、佐野内膳屋敷にて(「少傅日録抄」松平文庫(当館保管)A0143-01108)。
    1849年(嘉永2)1月12日、佐野内膳屋敷物見(下威し)(『家譜』)
    1853年(嘉永6)1月12日、14日 日佐野式部屋敷物見(『家譜』)
    1865年(慶応元)1月14日、佐野小太郎屋敷にて(勇姫も同屋敷仮物見にて)(「側向頭取御用日記」松平文庫(当館保管)A0143-00520
    1866年(慶応2)1月14日、佐野小太郎屋敷にて(勇姫も同屋敷仮物見にて)(「側向頭取御用日記」松平文庫(当館保管)A0143-00522
  • (6)「福井市左義長馬威模様書」松平文庫(当館保管)A0143-21625、『福井市史』資料編9、1994年、p.610。この資料には記名はありませんが、独特の筆跡から鈴木準道の後年の回想と考えられます。
  • (7)「御配符留覚帳」1828年 松田三左衛門家文書(当館蔵)A0169-00438
    『福井市史』資料編6 近世4下、1999年、p.247。
  • (8)「福井市左義長馬威模様書」松平文庫(当館保管)A0143-21625、『福井市史』資料編9、1994年、p.603。
  • (9)たとえば、1765年(明和2)では、68頭中60頭が藩士の持ち馬で、藩の厩で維持されている「官馬」が8頭でした(印牧信明「福井城下の正月行事『馬威し』について」『福井市立郷土歴史博物館研究紀要』11、2003年)。
  • (10)『越前松平家家譜 慶永』4 、2010年、p.100。
  • (11)『福井市史』通史編3 近現代、2004年、pp.26-28 。
  • (12)『福井県史料』34(敦賀県歴史 政治部 賞・賑恤・祭典・戸口・民俗)国立公文書館デジタルアーカイブ
  • (13)安西関六については、福井県文書館資料叢書9『福井藩士履歴』1、2013年参照。
    その養弟の安西五郎吉は、福井県文書館資料叢書15『福井藩士履歴』7 子弟輩、2019年参照。『稿本福井市史』下(p.972)では、この1884年(明治17)の「馬威し」を「元御馬方安西、塚田の両氏、魚町西側辺の火丁(消防組員)共」が催したとしています。安西は馬術師範で、塚田は士族の「柄田」と思われます。
  • (14)関良平とその家督を継いだ関英治については、福井県文書館資料叢書11『福井藩士履歴』3、2015年参照。
  • (15)「打毬」は、二組に分かれた騎馬が紅白の毬を杖ですくい取り、自分の組の毬門に早く投げ入れた方を勝ちとする競技でしたが、「馬威し」同様に廃藩後にほとんど行われなくなっていました。
  • (16) 「清光院」は、福井城下木田観音町にあった孝顕寺下屋敷(13世易室の隠居所)と外中島の清光院とを合併して御舟町に移転した寺とされ、その後1811年(文化8)に木田赤坂に再移転したとされる(松原信之「福井城下寺社資料」『若越郷土研究』11-3、1966年7月、pp.35~47)