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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

江戸時代のふくいの油揚げ事情-「デジタルアーカイブ福井」の資料から-

(本コラム記事と対応する写真の部分にはを付しています)

目次

  1. はじめに
  2. 報恩講の油揚げ
  3. 「惣報恩講譲牒」にみる油揚げ
  4. 「惣報恩講譲牒」からみる油揚げのバリエーション
  5. 「法事」をキーワードとして資料を検索
  6. 「法事帳」に結びつけられた「覚書」で謎解き
  7. 油揚げの風味は江戸時代中に変わった?-荏胡麻油から菜種油へ-
  8. 献立資料の中に、油揚げはどれくらいでてくるか
  9. 献立資料にみえる油揚げの「立ち位置」
  10. 五色麩>飛竜頭>油揚げ?
  11. 「ふつうの日」の油揚げ-油揚げを買う-
  12. 油揚げをもらう・贈る
  13. おわりに

はじめに

総務省統計局の統計資料「家計調査の1世帯当たり品目別年間支出金額及び購入数量(2016~2018年平均)」によると、全国の都道府県庁所在市及び政令指定都市のうち、福井市は「油揚げ・がんもどき」の家計消費支出が1位です。
このランキング1位という実績は統計を取り始めてから57年間続いており、もはや不動の地位となっているかのようです(令和2年10月現在)。

1782年(天明2)成立の本『豆腐百珍』は、「通品」として「油煤豆腐(あげとうふ)」を載せていますが、これは豆腐を薄く切って揚げた油揚げのことと考えられます。
ただ、ふくいで「油揚げ(あぶらげ)」といえば、通常は大判で厚みのあるいわゆる「厚揚げ(生揚げ)」を意味します。
本コラムでの油揚げも、特に断らない限り、「厚揚げ」のことを指します。

ふくいの一般的な油揚げ

ふくいの一般的な油揚げ

浄土真宗の仏事や法事の関連で、ふくいではとくに油揚げの消費量が伝統的に多いとされています。
本コラムでは「デジタルアーカイブ福井」の資料からうかがわれる、江戸時代の「ふくいの油揚げ事情」を紹介します【注1】

報恩講の油揚げ

油揚げの 味戴くや 報恩講

この句は、大野市の小嶋吉右衛門家の資料「惣報恩講譲牒」にみえるもので、1869年(明治2)11月23日、大野の万株園茶店で催された惣報恩講(「ソウホンコ」)で詠まれたものです。惣報恩講の参加者(氏名未詳)が即興で作った句です。

報恩講とは、阿弥陀仏ならびに浄土真宗の宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる仏 事のことで、特に浄土真宗の寺院と信徒が多い嶺北地方で現在でも広くみられます。
真宗寺院が営む報恩講と、講などの信徒の組織が行う報恩講がありますが、この大野の惣報恩講は後者にあたります。

「惣報恩講譲牒」(明治2年記)

「惣報恩講譲牒」(明治2年記)

「惣報恩講譲牒」によると、前述の11月23日の惣報恩講をひかえ、「今年(明治2年)前代稀なる米価にして諸色沸騰」し、「同輩之族もいまた一致之心に至さる処」という状況でした。
つまり、物価高騰が原因で惣報恩講を行うかどうかについて意見の一致をみず、開催が危ぶまれる状況であったということですが、同資料によれば、図らずも「老旦那」の「厚き恵ミ」を受けて営まれたといいます【注2】

このような背景を考えると、前掲の一句は、物価高騰のさなか、なんとか惣報恩講を営み、今年もお斎(オトキ。仏事における食事)の油揚げを食することができた喜びと安堵の思いがにじんだ句のように感じられます。

従来から料理や食の研究者に指摘され、またこの句が示すように、報恩講と油揚げには深い関係があったようですが、もう少し同資料からこの関係を探ってみましょう。

奥越の郷土料理と油揚げの煮物(写真左上)

奥越の郷土料理と油揚げの煮物(写真左上)
(提供:福井県奥越農林総合事務所)

「惣報恩講譲牒」にみる油揚げ

さて、「惣報恩講譲牒」には、1805年(文化2)年から1887年(明治20)年までの、おおよそ80年間の報恩講のための買い物記録、買い物代金の割方、客の名列、年によっては先に紹介したような惣報恩講にまつわる即興の俳句などが記録されています。

「惣報恩講譲牒」(文政9年記)

「惣報恩講譲牒」(文政9年記)

この「惣報恩講譲牒」は、おおよそ80年間のうち数年分の記録を欠き、また記録を欠いた年については「書付不見」などと注記があることから、毎年記録を書き継いで作成されたものではなく、何年か保存しておいた書付を写して作成されたものと考えられます。
このうち、買い物記録の内容をまとめたのが表1です。

表1 「惣報恩講譲牒」にみえる豆腐・油揚げ・種油(PDF:124KB)

表1によると、大野でのこの惣報恩講では、天保期ごろを境に買い物の内容に大きな変化があることがわかります。すなわち、天保期より以前は20丁ほどの「豆腐」を買っていますが、同時に3~5合ほどの「種油(菜種油)」も買っています。
また、天保期ごろから油揚げを買いはじめると、種油を購入しなくなっています。
このことから、少なくともこの講では、天保期以前は基本的に豆腐を菜種油で揚げて、いわば手前揚げで油揚げをつくり惣報恩講に供していたことがうかがえます。

蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」という有名な俳句は、1774年(安永3)に河内国か六甲山系の摩耶山(現神戸市灘区)あたりを訪れたさいに、一面の菜の花を前に詠んだものとされています(石川真弘『蕪村の風景』2002年)。菜の花は、江戸時代後期には広く栽培され、その種子である菜種は油の原料となり、搾油方法の改良もあり大量生産された菜種油は安価な油として灯明(灯火)用の油の需要に応えました。

一方菜種油は、料理油として天ぷらにも使われ、江戸では屋台料理として各種の天ぷらが供されたといいます。油揚げもこのように、江戸時代後期にかけて手前揚げから店売りへ変化し、より一般的なものになっていったのかもしれません。

表1にみられるように、「惣報恩講譲牒」の1830年(文政13)から1834年(天保5)の記事には、惣報恩講に急にやってきた「押懸(おしかけ)客」3人のために油揚げにする豆腐を追加で取り寄せ、また、余った油揚げを遅れてきた人に食べさせたと、わざわざ注記してあります。興味深いことに、他の食材にはこのような記述は見られません。当時の惣報恩講の運営側(講)と客の双方が、「報恩講の食事(お斎)には油揚げが欠かせない」と認識していたからではないでしょうか。

「惣報恩講譲牒」(文政13年記) 客および「押懸客」についての記述

「惣報恩講譲牒」(文政13年記) 客および「押懸客」についての記述

また、1818年(文政元)など数年に、「油揚げを本家(小嶋家か)へ持たせ遣わした」などという記事もみられます。
かつてのふくいでは、報恩講で供された料理のうち、大きな油揚げにはほとんど箸をつけず、土産として持ち帰るのが慣例だったといわれています。油揚げは当時の人びとにとって、ちょっとしたご馳走だったようです。

「惣報恩講譲牒」からみる油揚げのバリエーション

「惣報恩講譲牒」によると、前述のように、おおよそ1834年(天保5)ごろまでは豆腐を手前揚げしてつくっていましたが、1821年(文政4)を初見として、天保期以後は店売りの油揚げがよくみられるようになります。これらの数量には助数詞(数量を表す語につけて、数えられる物の性質や形状などを示す語)として「丁」が使われています。天保年間の後半は油揚げ1丁の単価は56文だったことが表1からわかります。

ところが1854年(嘉永7)からはこの「丁」という助数詞は資料にはみえなくなり、かわって「一ツ、二ツ…」と数えられるようになると、油揚げの単価は8文程度に低下しています。幕末は物価が上昇していたことは周知のことですが、この時期に油揚げの値段だけ急落することは考えられません。
このことから、おそらく1854年以降は、大野の惣報恩講では「丁」を単位としてではなく、「六ツ切り」「八ツ切り」などと称した小さな1切れを「一ツ」として購入したものかと考えられます【注3】

また、1849年(嘉永2)の記事には、油揚げの助数詞として「枚」がみえます。この年には油揚げ20枚に加え、油揚げとともに平椀に盛る煮物の材料と考えられる人参・芋・牛房・こんにゃく等も買い求められていることから、この時は「枚」と数えることがふさわしいような、厚みが薄めの油揚げ(薄揚げ)を買い求めたものと考えられます。

このように「惣報恩講譲牒」によると、店売りの油揚げについては、3種類の助数詞「丁」「ツ」「枚」が使われており、3種類の油揚げがあったことがわかります。
現在、豆腐店やスーパーマーケットなどの店頭などでもこれらの助数詞に対応するようなさまざまな大きさ・厚みの油揚げは見かけますが、この江戸時代の大野の「惣報恩講譲牒」からも油揚げのバリエーションを読み取ることが可能です【注4】

「法事」をキーワードとして資料を検索

浄土真宗の報恩講以外の場面、例えば法事などでも油揚げは食べられていたのでしょうか。
試しに福井県文書館が運用する「デジタルアーカイブ福井」で「法事」をキーワードとして資料名を検索すると、128件の資料がヒットします(令和2年9月末現在)。【注5】

デジタルアーカイブ福井(フリーワードによる簡易検索画面)

デジタルアーカイブ福井(フリーワードによる簡易検索画面)

うち19件に江戸時代の法事の支出や献立関係の記録があり、その19件のうち、油揚げまたは豆腐の記述がある江戸時代の資料は16件と高い割合でした。
なお、油揚げだけでなく豆腐の記述がある資料も拾ったのは、先にみた「惣報恩講譲牒」で示したように、豆腐が油揚げの材料になりうるためです。
16件の資料を年代の古いものから順に一覧にしたものが、表2です。

表2 資料名に「法事」の語を含む資料(PDF:126KB))

表2の資料番号1の資料は、法華宗信徒の松浦家の法事の記録です。油揚げの記録はないものの、村人が豆腐を持参していることがわかる資料です。
資料番号2・3・8の資料は、浄土真宗の法事に際して豆腐や油揚げを音信(贈り物)として贈ったり、持ち寄ったりしたことを示しています。
資料番号10の資料は、若狭のもので、臨済宗信徒の村松家の法事に際して豆腐を持ち寄った例です。豆腐や油揚げの「持ち寄り」は仏事の「お供え」にあたる行為と考えられますが、浄土真宗の報恩講に限らず、江戸時代の法事一般に際して行われていた生活文化かと思われ、興味深いところです。
また、事例は資料番号10の1件のみですが、若狭でも法事に油揚げを食べることがあったことがわかります。

「法事帳」に結びつけられた「覚書」で謎解き

さて、表2の資料のうち、油揚げの記録が明確に現れる最も古い資料は1731年(享保16)の資料番号5で、「弐百文、油上ケ拾丁、但六ツ切、壱丁ニ付弐拾文ツゝ」とみえます。
当時、六ツ切りの油揚げ1丁が20文で売られていたことなどがわかりますが、それ以前の資料にみえる豆腐は、そのまま豆腐として食べられたのか、それとも、「惣報恩講譲牒」でみたように揚げて油揚げとして食べられたのか、気になるところです。

表2の資料番号2は、1715年(正徳5)の吉田郡上合月村(現永平寺町)の勝見宗左衛門家の法事の際に寄せられた音信(贈り物)や法事のための買い物、参列者などが書かれた記録(「正徳五乙未年二月二十七日法事帳(方々ゟ音信、ふくいかい物、方々へ賦覚)」。以下「法事帳」と略記)ですが、ここにその謎を解くヒントがありました。
次の写真は資料中の買い物の記録ですが、豆腐とともに「ゑ油」、つまり荏胡麻(エゴマ)の油が買われているのです。

勝見宗左衛門家文書「法事帳」にみえる「ゑ油4合5夕」と「豆腐20挺」(写真左端)

勝見宗左衛門家文書「法事帳」にみえる「ゑ油4合5夕」と「豆腐20挺」(写真左端)

このことから、豆腐を荏胡麻油で揚げて油揚げをつくった可能性があるといえますが、この資料だけでは断定できません。なぜなら、買い物の記録には通常、購入品目とその代金が記されますが、それ以上の情報、例えば油で揚げるなどの調理法などは記されることはありません。また、荏胡麻油は伝統的に灯明用の油として広く使われていたので、買われた荏胡麻油も法事の灯明用の油である可能性が残るからです。

しかし、大変幸運なことに、「法事帳」には、もともとこれと別の資料であった極めて有益な資料が、帳末の綴じ紐に結び付けられていました。

勝見宗左衛門家文書「法事帳」帳末の状況

勝見宗左衛門家文書「法事帳」帳末の状況

法事帳に結び付けられていた資料は、広げるとこのようになります。

勝見宗左衛門家文書「法事帳」に結びつけられた資料

勝見宗左衛門家文書「法事帳」に結びつけられた資料

結び付けられていた資料は、この時の法事にともなう食事(非時および斎)についての資料で、「非時・斎覚」ともいうべき一種の献立です。汁の実として「もミとうふ(揉み豆腐)」を記録するほか、「平 あけとうふ かきこふ からし」とあり、平椀に揚豆腐(油揚げ)が掻き昆布とともに盛りつけられ、辛子が添えられたことがわかります。

「法事帳」に結びつけられた資料(部分)

「法事帳」に結びつけられた資料(部分)

しかし、「法事帳」にみえる法事の際の購入品目に「揚豆腐」はみえません。よって、この揚豆腐は、手前で豆腐を荏胡麻油で揚げて作ったものであることが推定できるのです。
なお、表2の資料番号4にも「ゑノ油」と「とうふ」がみえるので、同様のケースと考えられます。

このようにひとつの謎がほぼ解けましたが、これは、本資料の管理者(勝見氏)が「法事帳」とこの「非時・斎覚」を関連の文書として扱うべく前掲写真のように結び付け、これを保存し後世に伝え、また現代に至り、原秩序尊重の原則や原形保存の原則に基づいて、文書のまとまりなどを残しつつ調査し、これらがわかるように撮影したからです。
やや大げさにいうと、これらの要素の一つでも欠けていれば、この「謎」―豆腐を荏胡麻油で揚げて油揚げをつくったかどうか―は解けなかったかもしれません。

油揚げの風味は江戸時代中に変わった?-荏胡麻油から菜種油へ-

さて、油揚げをつくるさいの油として、江戸時代の越前には少なくとも2種類の油があるらしいことがわかりました。
「ゑ油(ゑノ油)」と「種油」、すなわち荏胡麻油と菜種油です。

荏胡麻(エゴマ)

荏胡麻(エゴマ)

現在のわれわれが食べている市販の油揚げの多くは、江戸時代後期以降広く流通する菜種油で揚げられたものですが、表2の1715年(正徳5)の資料番号2のケースと1726年(享保11)の資料番号4のケースは、江戸時代中期における荏胡麻油で揚げた油揚げの存在を強く示唆します。江戸時代、越前の油揚げの油が荏胡麻油から菜種油に切り替わった可能性があるといえそうです。

松浦平六家文書「妙利拾七年季法事万留帳」(ゑノ油ととうふの記述状況)

松浦平六家文書「妙利拾七年季法事万留帳」(ゑノ油ととうふの記述状況)

「法事」という1つの語をキーワードとした検索結果からこの2件が見出されたのですから、より多くのキーワードを設定すれば、油の利用事例は他にも見つかると考えられます【注6】
また、今後の資料調査により、当時の油の利用事例を積み上げるとともに、ふくいの油の生産・流通などの側面がより明らかになると、荏胡麻油で揚げた油揚げから菜種油で揚げた油揚げに切り替わるおおよその「画期」がわかってくるかもしれません【注7】
ただ現段階では、「越前では江戸時代中期ごろまでは油揚げに荏胡麻油が使われ、江戸時代後期ごろから油揚げに菜種油が使われるようになった」という見方は、まだ仮説の域を出ないでしょう。

献立資料の中に、油揚げはどれくらいでてくるか

次に、「デジタルアーカイブ福井」で「献立」をキーワードとして資料を検索してみました。
「献立」をキーワードにしてヒットする資料の多くは、料理(多くは食器名と食材名のみ)を列記した「献立」なので、油揚げを数量的には把握できません。
しかし、どのような場面でどれくらいの頻度でそれが食べられたのか、あるいは食べられなかったかについて、おおよその傾向をつかむことは可能です。

献立資料にみえる「平 あぶらげ しょうが」(岩堀健彦家文書(献立覚))

献立資料にみえる「平 あぶらげ しょうが」(岩堀健彦家文書(献立覚))

検索の結果、155件の資料がヒットし、うち58件に江戸時代の豆腐や油揚げのいずれかまたは両方の記録がありました。
豆腐の記録は48件みられ、松平文庫資料など藩主に供する膳の献立に登場するほか、村役人クラスの家の祝儀等の献立で広くみられました。
一方、油揚げ(飛龍頭・がんもどきを含む)がみえる献立資料を一覧にしたものが表3です。

表3 資料名に「献立」の語を含む資料(PDF:123KB)

献立資料にみえる油揚げの「立ち位置」

表3が示すように、油揚げが食べられたことを示す献立資料はわずか17点にとどまります。このことについて考えてみましょう。
献立資料は、ごく大まかに分類すると、(1)冠婚関係、(2)葬祭関係(葬儀・法事・仏事関係)、(3)幕府・藩の役人の接待関係(幕府巡見使、藩の宗門改、検見など)、(4)その他行事関係(祭礼を含む)に分けられます。つまり献立資料は、そのほとんどすべてが、記録すべき「特別な日」の食事の内容を表すものといえます。
上記の(1)に分類される婚礼の献立には、豆腐は使われる場合があるものの、油揚げが使われた事例は1件もありませんでした。また、(3)に分類される各村における幕府巡見使等の接待の献立も残されていますが、通常の日の場合はもちろん、巡見日が巡見使にとって精進日(先祖や両親の忌日)になった場合の精進献立(魚類を使わない献立)にも油揚げは供されていませんでした。さらに、(4)に分類される福井藩の年中行事(式日)の献立にも、豆腐は登場するものの、油揚げが使われたことは確認できませんでした。

つまり油揚げは、通常、冠婚など祝いの席には出されず、また、大名や巡見使などの武士身分の人びとには通常は供されないもので、武士以外の(2)葬祭関係(法事・仏事)と(4)のごく一部の献立にしか出てこないものと考えられます【注8】
これらのことは、油揚げの、食べものとしての独特の性格や「立ち位置」を示しているように思われます【注9】

五色麩>飛竜頭>油揚げ?

油揚げの食べ物としての「立ち位置」をさらに端的に示す献立資料があります。年未詳の資料ですが、府中本多氏の菩提寺である龍泉寺における台徳院(二代将軍故徳川秀忠)のための霊膳(霊供膳)を記すとともに、「方丈(住持)」・「大衆(だいしゅ。一般の僧)」・「下部(しもべ)」に供された献立が書かれたものです(越前市龍泉寺文書、表3資料番号15参照)。

この献立資料によると、台徳院霊膳と方丈の向詰(向付)には五色麩が、大衆の向詰には飛竜頭(がんもどき)が供されています。また、大衆の平椀には五色麩が、下部の平椀には揚とうふ(油揚げ)が供されています。これらの五色麩、かんもどき、油揚げは、一緒に調理されているものが牛房、きくらげ、干瓢などであるので、いずれも煮物にされたことがわかります。

越前市龍泉寺文書「台徳院様御霊膳御献立」(龍泉寺大衆献立と下部献立の部分)

越前市龍泉寺文書「台徳院様御霊膳御献立」(龍泉寺大衆献立と下部献立の部分)

五色麩は台徳院霊膳と方丈と大衆に供されていますが、がんもどきは大衆のみに、油揚げは下部のみに出されています。前近代において、身分や社会階層と食が対応するという前提に立ち、この献立資料の内容を総合すると、これら3種の食べものとしての序列は、五色麩>飛竜頭>油揚げのようになっていたと考えるべきでしょう。

「ふつうの日」の油揚げ-油揚げを買う-

前述したように献立資料は、記録すべき「特別な日」の食事を記録したものですが、江戸時代の「ふつうの日」の食事が記録されることは稀で、記録があったとしても断片的にしかわからないケースが多いものです。

ところが、「ふつうの日」の食事をうかがわせる、大変興味深い資料があります。
福井城下近郊の足羽郡種池村の富農であった坪川家の資料群「坪川家文書」には、幕末から明治時代の各年の出来事のほか、贈答、支出などをほぼすべて記録した「年帳」がよく残され、買った食材から坪川家の食事内容が推測できます。資料中には、油揚げについての記録もよくみられます。

坪川家文書「卯年帳」にみえる油揚げの購入

坪川家文書「卯年帳」にみえる油揚げの購入

例えば1867年(慶応3)の「卯年帳」(『福井市史』資料編9所収)を集計すると、この年、坪川家の当主武兵衛は、木田堀町(現福井市西木田三丁目)の常久屋を主な購入先とし、近隣の下江守村佐兵衛(同人から辻買=行商か)などから年間30回、計118丁(うち14丁は札と引換え)の油揚げを購入しています(これ以外に、常久屋からの掛買いもある)。
このように油揚げをよく買う傾向は坪川家の他の「年帳」にもみられることから、少なくとも富農坪川家は油揚げを好んで買っていたようです。

油揚げをもらう・贈る

1867年の「卯年帳」には贈答の記録もあり、坪川武兵衛が受け取った贈り物や武兵衛が贈った贈り物も記録されていますが、その中にも油揚げが散見されます【注10】
同資料から、武兵衛は音信(贈り物)としてこの年24丁の油揚げを受け取っているのがわかるので、これに購入分を加えた油揚げの年間消費量はざっと142丁となります(坪川家の仏事など家内で供した分を含み、他家の仏事等で食した分を含まない)。
また音信として、油揚げ現品と引き換え可能な「油揚札」を5人の人びとに計34枚贈ったことがわかります【注11】

坪川家文書「卯年帳」にみえる贈り物としての油揚札

坪川家文書「卯年帳」にみえる贈り物としての油揚札

(参考)豆腐札(左)と包紙(右)

(参考)豆腐札(左)と包紙(右)

江戸時代、全国各地で引換券の「酒札」が使われ、一部の地域では「饅頭札」「豆腐札」などは使われていたようです。しかし、今のところ「油揚札」が通用していたケースは全国のほかの地域にみられず、「油揚札」が通用していたのは越前だけだった可能性があります(ただし、油揚札の現物はいまだ確認されていない)。

この油揚札は、前述の「法事に際して豆腐や油揚げを音信として贈ったり、持ち寄ったり」する生活文化と関係が深いと思われますが、少なくとも幕末期にこの地域―ふくいでの油揚げの需要・供給がともに大きく、油揚げが普段からよく食べられていたことを示唆しているのではないでしょうか【注12】

おわりに

「デジタルアーカイブ福井」の資料は、もとより古文書の悉皆調査を基にしたものではなく、また資料調査の密度は県内の地域により偏りがあることに注意すべきですが、「デジタルアーカイブ福井」の資料を検索し、油揚げに関する資料を紹介し、不十分ながら江戸時代の「ふくいの油揚げ事情」を考察しました。

江戸時代のふくいの油揚げは店から購入されたほか、報恩講の食として豆腐を揚げて作られたり、また法事の際に持ち寄られたりし、一方では庶民の食べ物として親しまれ、また油揚げ札により贈答にも使われたことを指摘しました。
このように、油揚げが庶民の生活文化(信仰、食、贈答など)に深く根を下ろしていたことは、現在のふくいの「油揚げ・がんもどき」の家計消費支出が高水準であることの大きな要因であると結論付けることができるでしょう。

油揚げの食文化など地域の生活文化が現れる法事帳や献立、買い物の記録などのほとんどは、個人の家経営のための資料、いわば私文書の性格が強い資料であることが多く(私家文書)、土地関係や支配・年貢関係など公文書の性格が強い資料と比べると、かつては軽視される傾向があったことは否めません。

しかし、今後このような私文書的な性格を持つ資料も幅広く調査研究の対象とすることで、全国的にも注目を集める「ふくいの油揚げ事情」など、ふくい独自の生活文化がより明らかになるかもしれません。

宇佐美 雅樹(2020年(令和2)10月22日作成)

注 釈

注1 「デジタルアーカイブ福井」は、福井県文書館・福井県立図書館・福井県ふるさと文学館が管理する古典籍・新聞・古文書・歴史的公文書・写真資料を中心とした協同検索データベース。画像も公開。
注2 「惣報恩講譲牒」によれば、大野の惣報恩講は1859年(安政6)から1867年(慶応 3)まで物価高騰を理由として9年間中断しているが、これは1859年の開港と貿易の開 始による物価高騰が波及していたことを示す。また明治12年のコレラの流行のさいには 惣報恩講に客を招かず「家内切」で行う事態になり、明治19年には惣報恩講の発起人小 嶋伍作(五作)が3か月間コレラに罹患するなど、順調な運営ができない年もあった。
注3 油揚げの大きさを示す「六ツ切り」という語の用例として、表2資料番号5および表 3資料番号7の資料がある。また、「八ツ切り」という語の用例として、表3資料番号5 の資料がある。
注4 この3種の助数詞以外でも、「切」という助数詞が勝見宗左衛門家文書の天明3年「法事ニ付入用覚」(B0037-00361)にみえ、同資料によれば豆腐1丁が18文であるのに対し、油揚げは120切れで540文(1切れあたり4.5文)であることがわかる。
注5 ただし、「デジタルアーカイブ福井」で目録として公開している古文書の資料名は、 福井県史編さん時(1978年~1998年)に作成された比較的簡略な資料目録をベースにしているものが多いため、各資料のメタデータが不足しているものがあり、資料が当該情報 を含んでいても、資料名を対象としたキーワード検索でヒットしない場合がある。この検索の精度を上げるためのメタデータの追加等は今後の課題ではあるが、現状でもおおよその傾向はつかむことができる。
注6 法事の類義語である「仏事」「取越」「法要」や、関連語の「香典(香奠)」などの語が含まれる資料も調べる必要がある。
注7 「デジタルアーカイブ福井」で「菜種」「種油」をキーワードにして資料検索を行うと、18世紀半ば以降における、越前での菜種生産と菜種流通をうかがわせる資料が多数見出せる。
注8 1850年(嘉永3)3月の鯖江藩の宗旨改(宗門改)の際の食材等の購入記録によると、食材として「揚豆腐九ツ」が購入されているが(飯田広助家文書、G0024-03101)、この時の献立には揚豆腐はみえない(同、G0024-03100)。この時の揚豆腐は、献立に記されない、いわゆる賄の食材であったと考えられる。また、年未詳であるが、江戸時代中期ごろ、大野郡勝山の大蓮寺が勝山藩主に「揚豆腐」を献上し、これが「披露」され「御風味」の旨が仰せ出されたため、同藩家臣の原治部右衛門を介して大蓮寺にその代金を与えられているケースがある(勝山市大蓮寺文書(揚豆腐ニ付書状)、J0081-00030)。これは揚豆腐(油揚げ)が武家の食生活にとってなじみがなく、珍しいものであったことを示していると考える。
注9 森恵見・谷洋子「仁愛女子短期大学研究紀要 第49号 福井県の油揚げに関する調査」は、「(油揚げは)お盆や正月、冠婚葬祭時だけのご馳走だった」とし、「祝いの席などでも使われていた」とするが、本コラム作成のため調査した献立資料をみる限り、正月・冠婚・祝いの際には供されていない。
注10 『福井市史』資料編9所収「坪川家音信留」にも音信(贈り物)としての油揚げがみえる。
注11  坪川武兵衛の購入分118丁のうち、14丁は油揚札と引換えたものである。
注12 森恵見・谷洋子前掲論文は、「油揚げは、いつしか一般家庭にも広がっていった」としているが、油揚げが一般に広がった時代や、油揚げ食が普及した社会的背景について触れていない。