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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

山本勘助と福井藩士菅沼家

戦国時代、武田信玄の“軍師”として名高い山本勘助。2007年の大河ドラマ『風林火山』でご存じの方も多いのではないでしょうか。
今回は、文書館収蔵資料の中から、山本勘助と“福井とのゆかり”について紹介したいと思います。
*以下、資料の引用に際しては、原文を適宜読み下し、送り仮名などを補っています。

目 次

  1. 菅沼家文書との出会い
  2. 福井藩士 菅沼家
  3. 菅沼家元祖・山本成本
  4. 菅沼家の系図(1)18世紀前半成立
  5. 菅沼家の系図(2)19世紀前半成立
  6. 山本菅助の子孫
  7. 牧野家とのゆかり
  8. 牛久保の山本市左衛門
  9. 市左衛門と勘助
  10. 菅沼寛次が果たした役割

菅沼家文書との出会い

2019年秋、福井市在住の男性が当館を訪れ、「先祖が山本勘助だと聞いているが、調べることはできないか」と相談されました。後にも述べますが、じつは勘助は長く実在が疑われてきた人物です。その人物が先祖?というのが第一印象でした。
しかし、詳しくお話をうかがってみると、江戸時代から伝えられてきた古文書があり、また勘助の肖像画もあるとのこと。
翌日、ご持参いただいた文書類を拝見すると、福井藩祖・結城秀康を含む歴代藩主の発給文書や「山本勘助入道道鬼晴幸像」(A0206-00007)、福井城の「御本丸御指図」(A0206-00046)など、これまで存在が全く知られていなかった文書が100点余り。系図(「菅沼家譜」A0206-00001)には確かに勘助の記載もありました。
これが昨年新たに発見され、当館に寄託されることになった福井藩士「菅沼家文書」との出会いでした。

菅沼家文書が入っていた「御朱印箱」

菅沼家文書が入っていた「御朱印箱」

福井藩士 菅沼家

まずは菅沼家の藩内での位置から確認しておきましょう。
同家の元祖・山本成本(1567〜1627)は天正20年(1592)下総国結城(茨城県結城市)で結城秀康に召し抱えられました。その後、慶長5年(1600)秀康の越前拝領に伴い、成本も越前北之庄(後の福井)に移ります。
子孫は、本次、家次、次由、次常、吉次、高次、寛次、成次と代々が越前松平家(福井藩)に仕え、10代・次高の代に廃藩置県を迎えました。
元は「山本」を称しましたが、3代・家次(1649〜1710)の時に藩主の命によって母方の苗字の「菅沼」に改めています。
成本は初め400石で召し抱えられ、以後の加増により、与力知(寄子給)を含めた知行は一時1万3000石にも達しました。2代・本次(1589〜1678)はその遺領のうち3000石を下され、3代・家次は2000石を相続。貞享3年(1686)の半知を経て、同家の知行は1000石に固定され、明治維新を迎えるまで増減はありません。
幕末時点での知行1000石は上から数えて16番目の高禄で、属した家格の「寄合席」は、家老や城代を出す「高知席」に次ぐ高い家柄でした。

菅沼家元祖・山本成本

さて、ここからは菅沼家の元祖・山本成本について詳しく見ていきます。
まずは通称です。中・上級藩士の諱(いみな。実名)や通称の変遷をたどれる資料に「姓名録」(松平文庫A0143-02019)があります。同資料には、成本が市左衛門・内蔵頭・対馬守を通称としたことが記されていますが、改名時期は「不詳」とされています。

「姓名録」(松平文庫)

「姓名録」(松平文庫)

ところが、菅沼家に伝わった「菅沼家系明細録」(A0206-00002-001)には、成本の知行に関わる多くの文書が転写されており、時期によって以下のように宛名が変わっていったことが見て取れます。

・天正20〜慶長6年(1592~1601)…山本市左衛門
・慶長8〜同9年(1603~1604)…山本対馬守
・寛永2年(1625)…山本内蔵頭

ここでは、26~35歳の期間に「山本市左衛門」を名乗っていたことを覚えておきましょう。
つぎに生国です。文政13年(1830)に成立した「菅沼家譜」では、成本は永禄10年(1567)に「参州牛窪村」(愛知県豊川市)に生まれたとあります。
同家譜で注意すべきは、2代・本次もまた天正17年(1589)に「参州牛窪村」に生まれたとあり、その母つまり成本の妻も翌18年(1590)に同所で亡くなったとする点です。この時、成本は数え24歳で、おそらく妻子とともに牛窪(牛久保)にいたものと思われます。

菅沼家の系図(1)18世紀前半成立

ここからは菅沼家文書および松平文庫に伝わる菅沼家の系図を見ていきます。
享保6年(1721)、福井藩主・松平吉邦の命により、中・上級の藩士各家は自家の系図を藩に提出しました。その真偽が糺されたうえで、清書・集成されたものが松平文庫「諸士先祖之記」(A0143-02020~02025)です。
同書では成本より前の先祖に関する部分は「往古加茂次郎ヨリ相続仕り、近代山本勘介入道々鬼彦之由申し伝へ候、系図ハ焼失仕り候故、次第不分明に候」とだけ記されています。
ちなみに前掲「菅沼家系明細録」には、同年7月に4代・次由(1675〜1743)が藩に提出した系図の控が写されており(「先祖書写」)、成本の生国は「参州牛久保」と明記しています。
いずれにせよ、成本没後100年近く経った享保期の菅沼家では、成本は三河国牛久保の生まれで、山本勘介(勘助)の「彦」だと伝えられているが、系図が焼失してしまったため詳しい事情ははっきりしなくなっていた、ということになります。
また「諸士先祖之記」に載るということはすなわち、「勘助の彦」との由緒がひとまず藩に認められたことを意味します。「彦」の語は、孫をさす場合もあれば、曾孫をさす場合もあり、ここではどちらの意味かはわかりませんが、享保期の菅沼家では、勘介(勘助)と成本の間をつなぐ先祖の名はもはや分からなくなっていた、ということになります。

「諸士先祖之記」

「諸士先祖之記」 (松平文庫)

菅沼家の系図(2)19世紀前半成立

ところが、文政13年(1830)成立の「菅沼家譜」では「幸三(山本伝次郎)―晴幸(山本勘助)―幸成(山本左衛門尉)―成本(山本内蔵頭・対馬守・市左衛門)」と系図がつながれています。
注目すべきは晴幸(勘助)と成本とをつなぐ人物として「幸成」の名が挿入されていることです(幸成の箇所には「一ニ勘左衛門、勘助ノ孫ト云フ」との注記もあり)。
享保期に不明だった人物の名が、さらに100年を経た文政期になってなぜ判明したのでしょうか。
その経緯は「菅沼家系明細録」に明記されています。 文政9年(1826)6月、菅沼家8代・寛次(1802~1879)は旗本の田畑吉正に系図調査を依頼していました。田畑は「断家譜」を著した「諸家の系図に委しき人」です。
寛次は成本から家次までの3代分の略履歴を示したうえで、成本が勘介(勘助)の孫か、曾孫かは系図が焼失してしまって分からないので、歴代と家紋などを教えてほしい、と依頼しました。
その結果、田畑から送られてきた系図には「幸三―晴幸―幸成―成本」と書かれ、それぞれに略歴が付されていました。こうして菅沼家にも伝わっていなかった「晴“幸”」と「“成”本」の間をつなぐ「幸成」の名が新たに“判明”したのです。
ただし、田畑の系図は、成本の通称を市左衛門ではなく「左門」、内蔵頭でなく「内蔵助」と記し、文禄4年(1595)に「下総州結城において始めて秀康君に謁す」と記すなど(実際はその3年前に出仕)、信憑性に疑問が持たれるものでした。
それでも、菅沼家では田畑から得た系図情報を自家の家譜に採用したのです。

「菅沼家譜」(菅沼家文書)

「菅沼家譜」(菅沼家文書)

山本菅助の子孫

山本勘助は知名度の高さにも関わらず、同時代の信頼できる古文書・古記録にはその名を見出すことができません。17世紀前半成立の『甲陽軍鑑』という軍学書に初めて登場することから、長くその実在が疑われてきました。
ところが1969年に市河家文書、2008年に真下家所蔵文書と沼津山本家文書が発見されたことで、戦国大名武田家の家臣団に「山本勘助」ならぬ「山本菅助」という人物が実在していたことが明らかになりました。
勘助と菅助は単なる宛字で両者は同一人物なのか、それとも全くの別人なのか、はたまた「山本勘助」とは実在の菅助をモデルに脚色された人物だったのか、現在も議論が分かれるところです。
沼津山本家には、武田家から菅助(菅介)に宛てられた書状が何通も伝えられてきたことから、同家が実在した菅助(諱は晴幸)の子孫の家であることに疑いはありません。
しかし、同家伝来の由緒書などには、「菅沼家譜」で山本勘助晴幸と成本の間をつないでいた幸成の名が見当たりません。また、同家の系図では、初代菅助晴幸の実子幸房には男子がなかったとあり、晴幸の養子幸俊の4人の子と成本の生没年(1567〜1627)も一致しません。
つまり両家の系図を比較する限りにおいて、山本成本は「実在した山本菅助の孫ではない」ことが明らかであり、同様に「山本菅助の曾孫でもない」と言うこともできます。勘助の子孫の由緒を持つ菅沼家と菅助の子孫である沼津山本家とは、直接的な関わりは無かったと考えられるのです。

牧野家とのゆかり

実在した方の「菅助の子孫」ではなく、「勘助の子孫」あるいは「勘助兄弟の子孫」の由緒を持つ家は、菅沼家以外にもいくつかあります。
例えば、旗本の山本正重(九兵衛・九郎兵衛)は『断家譜』に「勘助晴幸三代庄助正忠男」と記され、『寛政重修諸家譜』では同家は「武田家の臣山本勘助晴幸入道道鬼が子孫にして、正重が父祖は牧野右馬允康成につかふ」と見えます。
また、牧野家長岡藩(新潟県長岡市)の家老山本帯刀家(勘右衛門家)に関する「山本系譜」(『長岡あーかいぶす』4号)には、この家の祖・成行(山本帯刀左衛門尉)は「山本勘助入道」と「異母兄弟」「勘助ハ妾腹にして兄也」などとあり、同様に「諸士由緒記」(『長岡市史双書』)では成政(勘右衛門)の箇所に「山本勘助同家」と書かれています。
この両家に共通するのが、牧野家の家臣という点です。 長岡藩祖・牧野忠成の父・康成(1555〜1609)は永禄9年(1566)に家督争いを制して幼くして三河国牛久保の城主となりました。享禄2年(1529)に牧野氏によって築城されて以来、康成が上野国大胡(群馬県前橋市)に移される天正18年(1590)まで、牛久保は牧野氏の城下町として栄えていました。「菅沼家譜」は成本や家次の出生地を「牛窪村」と書いていますが、彼らがいた頃の牛久保は牧野家の家臣団の屋敷や寺社、町屋が立ち並ぶ「町」だったのです。
ところで「菅沼家譜」では、成本の父「幸成」を「甲斐ニ生ル(略)信玄君・勝頼君ニ仕フ」と記しています。しかし、天正10年(1582)まで存続していた武田家の家臣・山本幸成の子が、なぜ永禄10年(1567)に三河牛久保で誕生せねばならなかったのでしょうか。成本の出生地が牛久保であることを信頼するならば、その父は牧野家の家臣だったと考える方が筋は通ります。
また菅沼家の2代~9代目の当主の諱には「次」の字が付きますが、これは2代・本次以降の「通字(とおりじ。代々にわたって用いられる字)」であり、初代成本だけが「次」の字がありません。文政期成立の「菅沼家譜」から登場した「幸成」の「成」の1字を継いだと考えることもできますが、牧野氏当主の康成から偏諱(へんき。諱の下の1字)を賜り、成本を名乗ったとは考えられないでしょうか。

『寛政重修諸家譜』(国立公文書館)

『寛政重修諸家譜』(国立公文書館)

牛久保の山本市左衛門

永禄3年(1560)以降の牧野氏牛久保城下の様子を描いたとされる古図が数点伝来しており、そこには牧野氏や家臣団37人の名が記されています。
目を引くのは「大林勘左衛門 山本勘助養父」の書き込みがあることです。

「牛久保城付近の古図」(『豊川町史』より)

「牛久保城付近の古図」(『豊川町史』より)

勘助は『甲陽軍艦』では「三州うしくぼの侍」として描かれており、幕命によって文化11(1814)に成立した『甲斐国志』でも「年十二、参州牛窪牧野右馬允ノ家令大林勘左衛門ノ養子トナリ」と記されていました。
一方、地元三河で元禄8年(1695)頃に成立したとされる「三州牛久保より出申候山本勘介先祖之覚」では、勘助は「牛久保牧野殿旗下七人之内」の山本図書の子とされ、15歳のときに「牛久保牧野殿家来大林勘左衛門貞次」の養子になったと見えます。
先の古図は、こうした地元の伝承もふまえて近世以降に作成されたものとみられていますが、この37人のなかには山本氏の名前も複数確認できます。長岡藩で勘助の弟の家(同家)とされる「山本帯刀」をはじめ、「山本勘右衛門」「山本三蔵」そして成本の通称と同じ「山本市左衛門」の名も見出すことができるのです(ただし『壊旧雑誌』所載「牛久保古図」では「市右ヱ門」)。 成本の出生は永禄10年(1567)のことであり、古図に載る「市左衛門」をただちに成本本人とみることは難しいのですが、成本の父や兄であった可能性は否定できません。『寛永諸家系図伝』の稲垣家の系図によれば、永禄9年(1566)に牧野康成が相続争いを制して、父の遺跡を相続するにあたり、山本市左衛門某と稲垣重宗、大久保忠世の口添えがあったことが記されています。
つまり、成本より先に、牧野家の家臣で山本市左衛門を称する人物が牛久保にいたことはほぼ間違いがないことになります。

市左衛門と勘助

ここまでくると、あとはこの市左衛門と勘助との関係さえわかれば成本と勘助との関係も明らかになるのですが、残念ながら両者を結びつける資料は現時点では確認できません。
「牧野氏を頂点とする宝飯・八名国人一揆ともいうべき領主達の連携の中で山本氏は相当大きな地位を占めていた」(『新編豊川市史1巻』)とされるように、16世紀の東三河一帯で山本一族が一定の力を持っていたことは確かなようです。
天保7年(1836)の序文を持つ地誌『三河志』の下長山村(豊川市)の項には「古屋敷三ヶ処あり」として、うち一つに「山本市左衛門 永禄六年十一月十九日死す、法名弘甫浄誓信士」との記載があります。続けて「勘助頼縄は八名郡加茂住す、弟帯刀頼重は八幡に住す(略)此の市左衛門も彼の一族なるべし」として、市左衛門が勘助・帯刀兄弟の一族であるとの推測が示されています(ここでは勘助の諱は「頼縄」)。伝承と推測の域を出るものではありませんが、興味深い記事と言えるでしょう。
18世紀前半頃には、菅沼家ではそもそも成本が秀康に召し出される前の牛久保時代のことが何もわからなくなっていました。そのため新城(愛知県新城市)にある菅沼家の菩提寺・宗堅寺を通じて、太田白雪(1661~1735)という人物に市左衛門のことを調べてもらった形跡もあります。しかし、結局詳細はわからず、勘助との関係も明らかにはならなかったようです。

菅沼寛次が果たした役割

寛保3年(1743)、福井藩では幕府の林内記から「山本帯刀頼氏」の子孫に関する内々の問い合わせを受けました。帯刀は「山本勘助入道道鬼」の「腹替り之弟」であるとの情報を得て、藩では菅沼内記(5代・常次)の家系図が「道鬼筋目」つまり勘助の血筋であることを認め、その旨を回答しています。
このように菅沼家の先祖が山本勘助であるとの由緒は藩が公認し、幕府への報告にも用いられるものになって いました。これ以外にも勘助との関係は折に触れて話題になったものと思われます。
そこでその系図を明らかにし、勘助を明確な先祖として位置づけようとしたのが8代当主の寛次(1802~1879)でした。
寛次は文政9年(1826)に田畑吉正に系図調査を依頼し、同13年(1830)に橋本周保に依頼して勘助に連なる「菅沼家譜」を作成させました。寛次は同家に伝わる文書類を転写して「菅沼家系明細録」を整えてもいます。
また、勘助の肖像画「山本勘助入道道鬼斎晴幸像」の軸の上巻部分には「菅沼家伝来画像主人因存菩提所鎮徳寺江預置者也/菅沼寛次代」とあることから、菩提寺の鎮徳寺に肖像画を収めたのも寛次だったことがわかります。
しかし残念ながら、寛次が関わった系図や文書類からは、勘助と菅沼家との関係を明白に物語る記載を見出すことはできません。今後、カギとなる「山本市左衛門」に関する資料が見つかることを期待したいと思います。

「山本勘助入道道鬼晴幸像」菅沼家文書

「山本勘助入道道鬼晴幸像」菅沼家文書

長野 栄俊(2020年(令和2)8月27日作成)

参考文献

  • ・『豊川市史』豊川市、1973
  • ・『山本勘助 新装版』上野晴朗、新人物往来社、2006
  • ・『山本勘助』平山優、講談社現代新書、2006
  • ・『長岡あーかいぶす』第4号、2007
  • ・『長岡市史双書15長岡藩政史料集(2)家中編』長岡市、1991
  • ・『新編豊川市史 第1巻』豊川市、2011
  • ・『「山本菅助」の実像を探る』山梨県立博物館監修・海老沼真治編、戎光祥出版、2013
  • ・『山本菅助 真下家所蔵文書の発見』安中市学習の森ふるさとの館、2017