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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

1918年の福井県下インフルエンザ・パンデミック(「スペインかぜ」)

このテーマについて、多くの問い合わせをいただいておりますので、レファレンス協同データベース(国立国会図書館)に掲載した当館のレファレンス記録をもとに、新聞画像などの資料とともに紹介します。

目 次

  1. 「スペインかぜ」別名「成金風」と県内の感染者数・死亡者数
  2. 『大野市史』に記された「スペインかぜ」の被害
  3. 新聞記事からわかる福井県下の「スペインかぜ」
  4. 予防手段としての「呼吸保護器」・うがい・予防接種

1.「スペインかぜ」別名「成金風」と県内の感染者数・死亡者数

このインフルエンザは、全国的には1918年(大正7)秋から21年春にかけて大流行し、患者数2,380万人、直接の死亡者だけでも38万9,000人に及んだとされています(1)。これは、1918年3月に米国で発生し、世界中に広がったパンデミックでしたが、第一次世界大戦で中立を保っていたスペインでは情報統制が行われず、この流行が大きく報道されたために、「スペインかぜ」と呼ばれました。

ただ、ここで紹介する『大阪朝日新聞』北陸版(1918.6~1919.2)で「スペインかぜ」の呼称が出てきたのは、「敦賀港における西班牙風(スペイン)一名成金風」(下記の記事)という表現で、いまのところ1度だけです。一名(別名)の「成金風」のほうが北陸の人びとになじみがあったのでしょうか。新聞記事には「成金風」の呼称が何度も登場しています。

流行感冒 警察部長の訓示(福井県 愈猖獗 戸口調査実施 工場・学校其他多人数集合せる場所で患者を発見したる時の処理方法)敦賀は百名(西班牙 スペイン風 インフルエンザ)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年10月28日(著作権の保護期間満了、以下同じ)
記事後半の「▲敦賀は百名」の一行後に「西班牙風(ルビ:スペーンかぜ)」と記されています。

「成金風」は、このころ第一次世界大戦時の大戦景気で急に金持ちになった「成金」が増えたことになぞらえたものでした。しかし、この呼称が使われたのもおおよそ1918年(大正7)10月下旬頃までで、これ以降は「流行感冒」「悪性感冒」という表現が用いられています。

福井県下は1918年8月下旬からはじまる「第一回流行」において、神奈川、静岡、富山、茨城、福島と並んで、もっとも早く発生をみた地域と報告されています。

「スペインかぜ」の患者・死亡者数(福井県)
時 期 福井県
患者数
福井県
死亡者数
人口1000人あたり
の死亡者数  
患者100人
あたりの死亡者数 
福井県 全国 福井県 全国
第一回流行 1918.8-19.7 237,510 4,077 6.80 4.50 1.72 1.22
第二回流行 1919.9-20.7 15,053 1,026 1.71 2.20 6.82 5.29
第三回流行 1920.8-21.7 1,101 9 0.02 0.06 0.82  1.65
253,664 5,112 8.53 6.76 2.02 1.63

注1)患者数・死亡者数は、内務省衛生局『流行性感冒』1922年による。
注2)人口比、患者比の全国の値は、文末注(2)による。

当時の福井県人口(国勢調査1920年)は、599,155人ですので、42.3%の県民がこのインフルエンザにかかり、5000人をこえる方がたが亡くなりました。全国の患者数が人口比で37.3%(2)であったのに対し、福井県では42.3%でした。
死亡者数から見ても、人口1000人あたり8.53人(全国6.76人)、患者100人あたり2.02人と、全国の値(1.63人)をかなり上回っていました。
また県下の休校数(1918・19年)は、110校、罹患児童数10,814人で罹患率27.9%でした(3)

2.『大野市史』に記された「スペインかぜ」の被害

このように県内でも広く流行し、多くの死亡者を数えた伝染病であったにもかかわらず、県内自治体史で「スペインかぜ」の具体的な被害について触れているものは、ほとんど見当たりません。そうした中で、『大野市史』通史編下 (4)では、小見出し「インフルエンザの大流行」を設けています。大野地域でいつ感染者が発生し流行していったのかはわからないとしながらも、大野町の機業場の感染被害のようすを紹介しています。
この機業場は、職工数70名で1918年(大正7)10月末に1名の感染者を出した直後の11月4日までの短期間に41名もの患者が出ていました。

3.新聞記事からわかる福井県下の「スペインかぜ」

福井県文書館の「デジタルアーカイブ福井」の詳細検索の「新聞」で「新聞記事」を選択し、「インフルエンザ」をキーワードに検索してみてください。現在、90件ほどの記事がヒットし、このうち大正時代の80件ほどが、「スペインかぜ」に関わる記事です(『大阪朝日新聞』北陸版)(5)。なお、明治期の8件も国内では「お染風(おそめかぜ)」と呼ばれた世界的な大流行、パンデミックでした。
それでは、新聞記事から読みとれる1918年の「スペインかぜ」のようすをみていきましょう。

6月中旬からの軍隊での流行

1918年(大正7)6月中旬以降、金沢の第9師団下の連隊や敦賀の歩兵第19連隊(第16師団)ではかぜが流行し、これに関連する可能性のある脳脊髄膜炎の流行も報じられていました(6月13・18日、7月19日、8月8・27日、10月1・4・19日、12月2・5・7・8・16日、1919年1月23日)。

聯隊の感冒経過 最初から1300余名(歩兵35聯隊第8中隊ほか 1375名 重患として入院20余名 インフルエンザ)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年6月13日

こうした軍隊での流行のはじまりは、内務省衛生局『流行性感冒』 が、8月下旬を「第一回流行」の端緒(6)としている時期より、2か月以上早いものでした。
これについては、すでに速水融氏が「春の先触れ」として「軍隊での罹患者の拡大」を指摘しています。それによると、6月中旬に第12師団(久留米)とともに、第9師団(金沢)でも670名(師団員の1割)が罹患したことが報道されていました (『福岡日日新聞』6月19日)(7)

その後7月下旬には、鯖江の歩兵第36連隊だけでも罹患者数が480余名となり、その数が多かった第7・8中隊では外出禁止の対策がとられました 。さらに8月上旬までに罹患者数が急激に増え、第9師団全体で6月段階の10倍にあたる6,590名、鯖江歩兵第36連隊でも1,367名に上りました(8月8日)。
このように、軍隊での流行は情報統制がかけられていたために、大分終息してから記事になることが少なくなかったようです。

病兵六千余名 今はもう終息したが(第9師団下 流行性感冒・インフルエンザ 本年6・7月の2回発生 いまや富山69連隊に5名患者あるのみ 合計6590名 歩兵36連隊[鯖江]で1367名)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年8月8日

同時期に金沢で市中感染

最初に金沢で市中感染が報道されたのは、第9師団の流行の初報とほぼ同時期の6月17日。前月に石川県立工業学校生徒が修学旅行で東京へ行った途中で発病し、その後「昨今各方面に蔓延し 殊に曩に罹病者を出したる軍隊の関係者 其他各隊将校の家族中発熱臥床中にあるもの少なからず 各学校職員及び職工工女にも発熱せるものありと」としています。東京滞在者や軍隊関係者の家族からの感染が広がっていたことがわかります。

成金風の流行(金沢における流行性感冒 歩兵第35聯隊 軍隊関係者 各隊将校の家族 学校職員 職工工女 インフルエンザ)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年6月17日

これに対して、「北陸版」という制約からか、福井県内での最初の報道はかなり遅く、10月17日になって敦賀の市中感染が報じられました。「敦賀の成金風」として「流行性感冒に類似せる奇病流行」「多数の患者ありて猖獗を極めつゝあり」としています。

敦賀の成金風(流行性感冒 多数の患者ありて猖獗 該病は今年5月頃京阪地方に流行 9月頃 当地方に インフルエンザ)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年10月17日

このすぐ後に福井市内や嶺北の村部に展開していた織物工場での流行がかなり広がっていることが報道されます。「坂井郡春江村に於ける機業工場の如きも数百名の患者」「(福井市内の)機業工場にては約半数も之が為休業し居れる有様」でした。

福井感冒流行(36連隊 近来稍下火 春江村機業工場 数百名の患者 福井地方 大流行 機業工場にては約半数も之が為休業、インフルエンザ)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年10月21日

さらに10月下旬から11月にかけて、小学校や中等学校、工場で集団感染が報道され、休校・休業が相次ぎます。
福井市旭小学校では1,150名中、4割を超える欠席者を出し、1名死亡。
大野郡五箇村勝原で水力発電所の建設工事に従事していた北陸電化会社の工夫の中には、死亡や重体者が多く、業務につける者は1,500名中わずか200名となり、10月29日から休業。
この水力発電所は、前年の1917年(大正6)11月に起工した西勝原発電所(最大出力7,200kw)です(8)

悪性感冒 学校工場休業(福井市旭尋常小学校児童欠席者28日 1150名中493名 福井撚糸染工 男工全滅 大野郡五箇村勝原の北陸電化会社 28日450名 肺炎急死10名 丹生郡 学校医と協議[インフルエンザ])

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年10月29日

感冒猖獗 患者日々増加(福井市 旭校休校 福井市内中等学校・小学校計1万124名中1515名欠席 工業学校63%欠席 金沢市 富山市 高岡市 長岡市概況 インフルエンザ)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年10月30日

流行感冒 運動会中止か(福井市公開運動場 若越体育会陸上部運動会)電化工夫感冒状況(勝原 谷口防疫官帰途 臥床100余名 死亡者は約25・6名)敦賀地方(敦賀町南・北・赤崎・粟野尋常小学校患者数、欠席者数 敦賀町民罹病者4000名以上 敦賀連隊では全体の3分1 罹り居る インフルエンザ)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年10月31日

「▲運動会中止か」とされた若越体育(大)会陸上部運動会は、
11月2日から4日間にわたって強行されました(全県から2,000名参加)

感冒 福井県(福井市最も甚だしく 殆ど各戸罹病 北陸中学・農林学校も7日より閉鎖 福井商業学校8日より一部休校 北陸電化会社 工夫1500名ほとんど罹病せざる者なく 医師も罹病 インフルエンザ) 敦賀地方(村部に侵入 小学校の休校 敦賀連隊の罹病者290名) 高岡

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年11月8日

西勝原水力発電所工事現場(北陸電化会社)の集団感染

北陸電化会社の集団感染では、通常なら往診できる福井市や大野町の医師も感染し、あるいは自身の患者の対応に忙殺されたため、ほとんど医療が行われなかったことが推測されます。工事現場の「事務所の前の空地には幾十となく棺桶が並んで列をなし」(9)たとされ、記事は九頭竜川の河原で火葬せざるをえなかったようすを伝えています。 この年には8月に導水用のトンネルで落盤事故が起こっており、さらにインフルエンザの集団感染に苦しんだ工事でした(翌年の6月に完成) 。

流行感冒 学校続々閉鎖(丹生郡村落 朝日・四箇浦・城崎等各小学校の臨時休校 吉川・豊 郡内11か所の小学校)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年11月11日
閉鎖があい次いだ丹生郡の小学校の状況がわかります。

風の神を新造船で漂流 種々の迷信が行はる(流行性感冒・インフルエンザ 敦賀 白木村 立石神社 常宮神社)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年11月17日

この頃には敦賀市街の死者は50余名に上り、流行がしだいに村部におよび始めていました。新造した小舟に供物と「かぜの神」を載せて沖に送り出す人びとの姿からは、近傍の身近な人を失い、有効な予防対策もはっきりしない不安の中で、ともに神事に取り組むほかなかったようすが伝わってきます。いっぽう、閉鎖されていた県内の学校や劇場は、11月中旬にははやくも再開していました。

流行性感冒 福井は下火(11月1日以来の死者318名、尚遠敷大飯両郡はますます蔓延しつつあり インフルエンザ)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年11月20日

11月1日から19日までの福井市内の死亡者は318名。
遠敷・大飯両郡ではますます感染が拡大しているとしています。

三国の感冒 患者三万に上る(インフルエンザ 三国警察署管内22箇町村 人口90544人 罹患者33540人 死亡者297人 三国町内の統計も)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年12月28日

防疫を管轄した三国警察署管内の状況がわかります。

面谷鉱山の集団感染

面谷鉱山(大野郡上穴馬村面谷)では、鉱夫や事務員など総人員908名中、ほとんどの人員(899名)が罹患し、内86名が死亡するという大流行が見られました(11月20日・12月3日)。

泣くに涙も出ぬ 風(感冒・インフルエンザ)に襲はれた面谷鉱山の悲劇 360余名 最初に倒れた同地郵便局 鉱山病院内に仮郵便局

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年11月20日

 面谷鉱山(感冒・インフルエンザ 一時猛烈を極め全山全滅 総人員908名中 899名罹病 死亡者86名 うち役員4名 昨今漸く終息 現在は患者120名 重症患者20名)

『大阪朝日新聞』北陸版 1918年12月3日

感冒(インフルエンザ) 若狭地方(奥名田村) 休校延期(東浦村五幡小学校)

『大阪朝日新聞』北陸版 1919年2月27日

4.予防手段としての「呼吸保護器」・うがい・予防接種

以上のように新聞記事で見る限り、福井県下の「第一回流行」のピークは、おおよそ10月中旬から11月で、全国的なピーク(2)とほぼ同時期であったといえます。 ただ若狭地方、敦賀の村部では1919年に入ってからも、流行が報告されています(1919年2月27日)。

この後1919年12月から20年にかけての「第二回流行」については、一般に、患者数は10分の1に過ぎなかったものの「其病性は遥に猛烈にして患者に対する死亡率非常に高」(10)かったとされています。福井県下の状況はどうだったのかは、さらに記事検索をすすめる必要があります。 

福井県のマスク普及策

このような「スペインかぜ」の「第一回流行」時に福井県下では、どのような予防手段がとられていたのでしょうか。これまで紹介してきた新聞記事では、その被害の甚大さは報じられているものの、予防策はほとんど記されていません。

『大阪朝日新聞』北陸版の記事をみる限りでは、「口蓋」「口覆」(マスク)や含嗽(うがい)、予防接種などの予防策が奨励され始めるのは、鯖江歩兵第36連隊や県内で「第二回流行」が顕著になる1919年(大正8)12月以降でした。

『大阪朝日新聞』北陸版 1920年1月17日

『大阪朝日新聞』北陸版 1920年1月17日

福井県警察部衛生課の自動車宣伝隊はマスクの使用を奨励するとともに、
各新聞社・支局に依頼し安価(1個15銭)で販売することになったとしています。

内務省衛生局『流行性感冒』では、「一、予防に関する思想の啓蒙」「二、『マスク』及び含漱の奨励」「三、予防接種の奨励」「四、学校工場其の他多衆集合に対する施設」「五、其の他の予防施設」について、各道府県がとった対策をまとめています。マスクの使用は、うがいとともに各道府県で積極的に情報提供できる数少ない方策のひとつでした。

福井県が「第二回流行」の1920年(大正9)1月に福井県が出した県令第6号、訓令第2号でも、具体的な予防手段としては「呼吸保護器」「含漱」(うがい)「予防接種」を挙げていました。その中でも、もっとも瀕出するのが「呼吸保護器」(レスピレーター)でした。なにやら難しい表現になっていますが、これは病菌を防ぐために鼻・口をおおうガーゼ製のマスクです。

県令第6号では、下記のように患者の居室への入室時や患者がやむをえず外出する際のマスクの着用を定めていました(第1条)。また公共交通機関や劇場などでは、マスクの着用のない者の乗車・乗船や入場を拒否できるとされていました(第5条)。さらに、学校や工場、汽車・電車、劇場、映画館、飲食店において業務に従事する者が流行性感冒に罹った時には、マスクを使用しなければ、業務に従事できない(第3条)としていて、マスクをすれば罹患者も業務に従事できたのです。マスクの効果は、かなり過大に評価されていたことがわかります。

福井県県令第6号「流行性感冒の予防ニ関スル件」 1920年1月22日
福井県県令第6号「流行性感冒の予防ニ関スル件」 1920年1月22日

福井県県令第6号「流行性感冒の予防ニ関スル件」 1920年1月22日

福井県訓令第2号 1920年1月26日

福井県訓令第2号 1920年1月26日
県や郡役所、町村役場、警察署等に対して出された命令です。

1920年1月17日の新聞記事でも記されているように、福井県では、マスクの販売について現価(1個30銭)で販売すべきことをあらかじめ「協商」(販売業者と協定)したが十分ではなかったため、県がマスクを集め、補助金を加えて1個15銭で交付したと報告されています。県下の申込数は、82,000余に達したといいます。また、県衛生課長から各警察署あてに「呼吸保護器の使用奨励に関する件」が出され、マスクの使用が奨励されました(11)。福井県とマスクは、100年前から浅からぬ関わりがあったということでしょうか。

『流行性感冒』では、 マスクは「本病予防上一般公衆を強制する程に特有なる方法にあらざるも 今回の経験によれば合理的に製造し適当に使用すれば相当の効果を期待し得べし」と、強制するほどの顕著な効果のある手段ではないとしながらも、適切な素材と着用の仕方が適切であれば、一定の効果を認めていました。

当時、マスクの素材として「優良」とされたバタ・モスリン(チーズやバターを包むのに用いられた綿のガーゼ)が、県内でどの程度入手可能だったのか、外縁から飛沫が出入りしにくい構造について、どれほど一般の人びとに周知されていたのかは、ほとんどわかりません。マスク使用が奨励されて間もない1920年2月、県内の14警察署管内のマスクの所持に関する調査では、マスクは県全体では総戸数の7割、人口の4割ほどに行きわたっていました(下表)(11)このあと、感染症の流行時にマスクをする習慣は、どのように根付いていったのでしょうか。

福井県のマスク普及策 内務省衛生局『流行性感冒』1922年 国立保健医療科学院蔵

福井県のマスク普及策 内務省衛生局『流行性感冒』
1922年 国立保健医療科学院蔵

福井県下のマスク所持数 内務省衛生局『流行性感冒』1920年、国立保健医療科学院蔵

福井県下のマスク所持数 内務省衛生局『流行性感冒』
1922年 国立保健医療科学院蔵

「マスク」の効果 内務省衛生局『流行性感冒』1920年 国立保健医療科学院蔵

議論が分かれた予防接種の効果

「予防接種」については、「本病の病原に関する学者の説未た一致を見す 之が効果に就ても学者の論争する所なり」とその効果について、議論が分かれている中での「ワクチン」接種の奨励でした(12)。なにしろ、電子顕微鏡の開発はこの時点からさらに20年の時を俟たねばならず、ウイルスの存在自体がとらえられていなかったのですから、当時の「ワクチン」はそれほど有効なものではなかったといえます(13) 。 予防接種を受けた人員の概数は、福井県下で67,472人、人口比では11%ほどにあたります(14)

「県衛生課出張、流行性感冒予防注射施行」鷹巣村長 各区長あて1920年2月17日 A0169-03308 松田三左衛門家文書

「県衛生課出張、流行性感冒予防注射施行」鷹巣村長 各区長あて 1920年2月17日
A0169-03308 松田三左衛門家文書(当館蔵)

柳沢芙美子(2020年(令和2)5月22日作成)
(2020年(令和2)5月26日加筆)

(1)内務省衛生局『流行性感冒』東洋文庫778 平凡社、2008年。なお、1920年の国勢調査内地人口55,963千人。また、この『流行性感冒』は国立保健医療科学院サイトで貴重書としてPDFで公開されています。こちらでは、pp.84‐85。
あわせて、「インフルエンザ流行の歴史と公衆衛生の役割 ―“スペインかぜ”と現代―/逢見 憲一(国立保健医療科学院生涯健康研究部)」医学史と社会の対話サイトを参照しました。[参照2020-5-13]。

(2)池田一夫・藤谷和正・灘岡陽子・神谷信行・広門雅子・柳川義勢「日本におけるスペインかぜの精密分析」『東京都健康安全研究センター年報』56、2005年。

(3)国立保健医療科学院版『流行性感冒』1922年、p.188。

(4)大野市編『大野市史』第14巻 通史編 下 (近代・現代)2013年、第2章 資本主義の発展と近代大野 第3節 商工業の成長と展開。

(5)この「スペインかぜ」に関する新聞記事検索は、レファレンスに応えるため、福井県文書館が所蔵する『大阪朝日新聞』北陸版(マイクロフィルム)のうち、1918年4月から20年1月までを急遽検索しなおし、当館データベースに追加したものです。現段階で「スペインかぜ」関連記事を網羅できているわけではありません。とくに1920年2月以降の流行のようすについては、あらためて検索を進める必要があることに留意ください。
 なお、この時期の県内刊行の『福井新聞』『福井日報』『若州』などの地方紙は、ほとんど残存していません。

(6)国立保健医療科学院版『流行性感冒』1922年、p.85。

(7)速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ-人類とウイルスの第一次世界戦争』藤原書店、2006年、p.46。

(8)関西地方電気事業百年史編纂委員会『関西地方電気事業百年史』1987年、p.179。

(9)前田又兵衛『飛島文吉』1961年、pp.105-117

(10)国立保健医療科学院版『流行性感冒』1922年、pp.88-89。カタカナ表記は、ひらがなになおしました。

(11)国立保健医療科学院版『流行性感冒』1922年、p.152、pp.170-173。カタカナ表記は、ひらがなになおしました。

(12)国立保健医療科学院版『流行性感冒』1922年、p.177-178。カタカナ表記は、ひらがなになおしました。

(13)「インフルエンザ流行の歴史と公衆衛生の役割 ―“スペインかぜ”と現代―/逢見 憲一(国立保健医療科学院生涯健康研究部)」医学史と社会の対話サイト[参照2020-5-13]。

(14)国立保健医療科学院版『流行性感冒』1922年、p.179。