春嶽の旅日記-「東海紀行」でたどる参勤交代-
「東海紀行」
松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-20273
天保15年(1844)、若き福井藩主 松平春嶽(慶永、当時17歳)は参勤交代で福井へ向かうために江戸を発ちました。東海道経由で約2週間の旅の始まりです。
春嶽はこの旅で見たこと、聞いたこと、感じたことを紀行文にまとめています。船歌を聞きながら川を渡った平穏な日もあれば、嫌いな雷に見舞われた不安な日もあり、
山あり谷ありの2週間だったようです。
展示では春嶽の紀行文「東海紀行」をもとに、道中のようすやできごと、しきたりなどを紹介しながら、江戸から福井までの旅をたどります。
会期
平成28年12月23日(金)~平成29年2月22日(水) 文書館閲覧室
旅のようす
東海紀行
「東海紀行」
松
平文庫(福井県立図書館保管) A0143-20273
デジタルアーカイブは
こちら
「東海紀行」のテキスト版は
こちら(pdf:1,120KB)、
資料紹介は
こちら(pdf:1,050KB)
(「福井県文書館研究紀要 第14号」に掲載)
17歳の青年藩主、松平春嶽による参勤交代の旅の記録です。
旅をしたのは天保15年(1844)4月29日から5月11日までの 13日間、江戸発・福井着の「交代」でした。この時は書名にあるとおり、東海道を経由したルートをたどっています。
この「東海紀行」、実は江戸で教えを受けていた「筑山先生」 (ちくざん先生=儒者の成島筑山)からの宿題でした。開いてみると、あちこちに朱筆で添削された跡があり、
書式を統一するための校正もなされています。
さすが「羊堂」(春嶽の別の号)、提出前に見直してきちんと加筆修正していたようです。
江戸から富士山へ
江戸のわが家
年未詳 「江戸常盤橋邸表奥ノ図」
松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-21410
福井藩の江戸上屋敷の絵図です。屋敷には上・中・下の 3種類があり、藩主が居住していたのはこの上屋敷です。
常盤橋邸は吉邦が拝領して以降 茂昭(もちあき)まで、10代にわたる福井藩の上屋敷でした。常盤橋までは麹町、竜ノ口、浜町という変遷をたどっています。
道中のエピソード1(4月23日~5月3日)
デジタルアーカイブ「東海道名所図会」 (清見寺)は
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難所その1「箱根」
寛政9年(1797) 「東海道名所図会」秋里籬島(著)
吉川充雄家文書(当館蔵) C0037-00551~00556
デジタルアーカイブは
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箱根権現の参道では供の疲れを考えて脇道を行くなど、春嶽も気を遣っているようすです。しかし、鳥居をくぐってみると思いがけず、境内を案内しようとする
子どもたちに囲まれます。
難所の箱根も春嶽には楽しい思い出として残ったのかもしれません。
日本一の大山 富士山
年未詳 「(東海道五十三次など)」「沼津」(左)・「原」(右)日本木版発行
勝見宗左衛門家(当館蔵) B0037-00661
デジタルアーカイブは
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2日目、朝の七ツ時半(午前5時)に宿所の程ヶ谷を出発してしばらく、相模国に入ったところで、はやくも富士山が登場します。
その後は進むにつれて右に、左に、正面に、通過する4日目まで3日間、心ゆくまで富士山を堪能しています。
富士山から福井へ
道中のエピソード2(5月5日~11日)
難所その2「大井川」
「東海道名所図会 四」より
デジタルアーカイブは
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箱根とならんで東海道を代表する難所です。
春嶽も「東海紀行」に「俗ニ此河と箱根嶺とをさして海道第一之難所いへり」と記しています。この川は駿府城、そして江戸の防衛という軍事的な役割も になっていたため、架橋も渡船も禁止されていました。
しかし、東海道を行くにはこの川を渡らなければなりません。 渡る時は…人力です。 (春嶽一行は無事に渡れましたが、春嶽の出発前に江戸に到着して
いるはずの家臣はここで足止めを食って江戸到着が大幅に遅れ、春嶽が江戸を出発して2日目に大磯で一行と出会っています。)
日本一の大橋「矢矧橋」
「東海道五十三次」より「岡崎」
デジタルアーカイブは
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岡崎の西を流れ「三河」の由来にもなっている矢矧川(矢作川)、その川に架かっていた橋です。長さは208間(約375メートル)、杭の数は70本で、当時は日本一の大きさを誇っていました(現在は当時よりも上流に架け替えられています)。
お迎えの準備は!…万端?
年未詳 「(治好参勤着城道筋、3日与力中掃除見分ニ付達)」ほか
浅田益作収集文書(当館寄託) C0121-01521・01523~25
藩主の帰国にあたり、城下の「馳走」(=おもてなし)を果たすために奔走した町人たちの記録です(当時の藩主は治好)。
ここでの馳走は「掃除」ですが、単なる掃除ではありません。与力、奉行の二重の見分(チェック)を控えた厳重な「掃除」でした。
与力の見分の2日前、町人たちはすでに「掃除」の準備に とりかかっていました。ところが当日はあいにくの雨で、見分は翌日に延びてしまいます。奉行の見分は、さらにその翌日です。
資料が残っているのはここまで。町人たちは無事に「馳走」を全うすることができたのでしょうか・・
福井のわが家
昭和2年(1927) 「福井城旧景」山下与平(写)
福井県立図書館貴重資料(福井県立図書館蔵) T0001-00004
江端・花堂を経て、赤坂(現在の月見2丁目)へ。ここからは城下です。
そのまま北上し、足羽川に架かる大橋(現在の九十九橋)へ。ここまでくれば、福井城はもう目の前。橋を渡り、本町をとおって 桜門から城内へ。鉄(くろがね)門、下馬門、太鼓門、いよいよ本丸に
近づいてきました。本城橋を渡り、瓦門をとおって本丸御殿の玄関へ。旅の最終目的地に到着です。
しかし、到着したといってもすぐにはくつろげません。帰城の式事がまっています。幕府へもきちんと使者を遣わして帰国を報告します。これでようやくおしまいです。
こうして春嶽は今回の参勤交代、13日間の旅を終え、無事に帰国しました。これから1年間は、福井で藩主としての務めを果たしていきます。
資料は幕末の福井城下を描いた画帖です(全25場面)。城下の各所がクローズアップされており、 当時の城下の細かなようすを知ることができます。
その他
武家名鑑「武鑑」
天保期(1830~44)「(天保武鑑)」、須原屋茂兵衛版
吉川充雄家文書(当館蔵) C0037-00604
デジタルアーカイブは
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大名や役付きの幕臣らの基本情報をまとめた資料集です。 藩や幕府ではなく、須原屋や出雲寺といった商人が編集・出版していたため、誤記も含まれていたようですが、
改訂を繰り返して役替えや屋敷替え、代替わりなどを反映し、最新の情報を提供していました。
大名の場合は家紋、官位に伺候席、参勤交代の時期、諸道具、 江戸屋敷の所在地、献上品や拝領品などが、ひと目でわかるように記載されています。
武鑑は武士だけでなく、町人や百姓にも重宝され、 政務に、取引に、お土産に、といろいろな場面で活躍していました。
武鑑を片手に大名行列を見物、というのも楽しみの ひとつだったようです。
その他、コラム紹介
展示室内
福井藩の年中行事「馬威し」
ガイドペーパー
第22回福井県中学生郷土新聞コンクール優秀作品展示
平成28年12月16日(金)~平成29年1月18日(水) 文書館閲覧室
ポスター