主な掲載人物
小沢 誠一(加藤 春夫)(おざわ せいいち(かとう はるお)、生没年未詳)
小沢兼吉の養子。1862年(文久2)に浮下代として出仕。68年(慶応4)3月、三岡八郎(由利公正) 付。
1871年(明治4)以降大蔵省、東京府、教部省勤務。72年(明治5)に加藤春夫と改名。77年(明治10)に足羽郡角原村の土地を、78年(明治11)に坂井郡陣ケ岡の土地を購入して土地開発及び農業に従事。坂井郡三国町汐見に養蚕教習所を設置するなど、娘婿の加藤恒蔵とともに明治期の養蚕業を指導。98年(明治31)に養蚕の指導書である『養蚕の手綱』を著す(国会図書館デジタルコレクション)。
清水 文蔵(河部 円)(しみず ぶんぞう(かわべ まどか)、生没年未詳)
吉江定右衛門の子。1857年(安政4)藩校明道館の算科局乗除師。1861年(文久元)算学修行のため上京。
63年(文久3)4月、福井藩が購入した洋式汽船「黒竜丸」を長崎で受け取るため、藩所有の洋式帆船「一番丸」に諸士とともに乗り組む。同年6月測量方となる。その後、検地方、会計寮権少属などを歴任。70年(明治3)5月数学佐教となり、以降数学教育に従事。73年(明治6)、岐阜県師範学校の前身の師範研習学校の初代校長となる。77年『筆算階梯』を編む(国会図書館デジタルコレクション)。
脇谷 又太郎(わきや またたろう、生没年未詳)
「新番格以下」に収載される福井藩士としては珍しく、江戸時代初期の慶長年間からの記載がある2家のうちの1家(もう1家は中村太兵衛家)。
脇谷又太郎は1602年(慶長7)御作事方手代書役となり、1624年(寛永元)に引退。以後明治維新期まで、脇谷家の歴代11名は卒の家格を保った。