Fukui Prefectural Archives
Monthly Exhibition
近年、若者を中心に歴史を題材としたネットゲームが流行しています。ネットゲームをしたことがない人でも、名前を聞いたことがある人は多いと思います。
この展示では、近年流行しているネットゲームの中でも「刀剣」と「城」が主役の2つのゲームに焦点を当てて、それぞれの福井の歴史との関わりについて紹介します。
平成29年9月29日(金)~平成29年11月23日(木・祝) ※終了しました。
福井県文書館閲覧室
「刀剣乱舞」「御城プロジェクト:REとは?」(PDF:443KB)
1574年(天正2)~1607年(慶長12) 「越前世譜 秀康様御代(1)」
松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-01799
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1599年(慶長4)、石田三成は徳川家康との主導権争いに敗れ、居城である佐和山城への隠居を命じられます。その後、三成は佐和山城まで護送されますが、その時護衛を担当したのが結城秀康でした。
秀康は瀬田まで三成を無事に送り届け、それに感謝した三成はお礼に正宗の刀を贈ります。この刀は後に「石田正宗」と称されるようになりました。
資料は福井藩の歴史書の1つである「越前世譜(せふ)」のうち、秀康時代の出来事を記したものです。ここでも、三成から秀康に正宗の刀を贈られたことが確認できます。それによると、この刀は豊臣秀吉の秘蔵の刀で、三成が秀吉から拝領したとあります(「石田正宗」については、宇喜多秀家から三成に贈られたという説が一般的です)。
1577年(天正5)4月7日 「(柴田勝家知行宛行状)」
片岡五郎兵衛家文書(当館寄託) A0027-00003
知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)とは、主君から家臣に与えた知行の割り当てを示し、その知行の権利を保証した文書のことです。資料は柴田勝家から新開(しびらき)一右衛門に出されたもので、所領200石、王見郷(おうみごう)宮森村を一右衛門に与えています。
朝倉氏を滅亡させ、越前一向一揆を平定した織田信長は勝家に越前の支配を任せます。勝家が早急に取り組むべき課題としては、軍事力の強化のほか、荒廃した国内状態の復興、国内の武士や寺社への知行分の安堵と宛行、
新たな本拠地としての北ノ庄城とその城下町の建設がありました。
この資料からは勝家による国内の武士への知行分の宛行を知ることができます。
1891年(明治24)12月
「和田八幡宮修繕寄付申出書(付、安波賀春日社吉田運吉小狐丸ニ関スル書)」
松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-00708
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資料は和田八幡宮の修繕寄付申出書に付属していたものです。この資料によれば、宝刀「小狐丸」は安波賀(あばが)春日神社の神主である吉田常吉の家に伝来していたもので、九条殿(九条道孝(みちたか)から松平正二位(松平春嶽)に要望があり、正二位の仲介で九条殿へ献納したとあります。
九条殿から常吉に端物(はもの)料として金100円、肴(さかな)料として金5,000疋(ひき)が贈られています。この時贈られた金は、安波賀村の吉川九左エ門の依頼で全額貸し出されており、今後はこの金で得られた利潤を春日神社の修繕費の補充にすることを願い出ています。
年未詳 「正二位慶永公御著述真雪草紙」
松平文庫(福井県立図書館保管)A0143-21554
「真雪草紙(みゆきぞうし)」とは、松平春嶽(慶永)が後年になってから自身の回想を著したものです。この中にも「小狐丸」の名が確認できます。安波賀春日神社には三条小鍛冶(こかじ)宗近(むねちか)作の太刀が伝来しており、享保(1716~36年)の頃に九条家からの要請で幕府から問い合わせがありました。
その際、この太刀が「小狐丸影」(「小狐丸」の影打ち)であると報告されていますが、春日神社には幕府からたとえ真打ちであっても「小狐丸の影打ち」として報告するよう密かに指示があったようです。
その後の1877年(明治10)、春嶽と九条道孝が京都で出会ったことで、九条家へ「小狐丸」が買い戻されることになります。
この「小狐丸」が真打ちであったのか、影打ちであったのかは定かではありません。春嶽自身もこの「小狐丸」を見たことがあるようですが、残念ながらその真贋(しんがん)等については述べていません。
ちなみに、この資料には秀康に贈られた「石田正宗」に関する話も書かれています。その中で、春嶽は「石田正宗」が福井藩に伝来したという話は間違いであることを指摘しています(実際は津山藩を治めた津山松平家に伝来しました)。
年未詳 「信長記 五之六七(木版)」
山内秋郎家文書(当館蔵) X0142-00311
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「信長記(しんちょうき)」は小瀬甫庵(おぜほあん)が太田牛一による「信長公記」を整理改編したものです。どちらも織田信長の一代を編年体で記したもので、江戸時代初期に成立した作品です。資料は全15巻のうち、巻5~7を一冊にまとめたものです。
1574年(天正2)の正月(資料では1573年(元亀4)の正月と書かれていますが、これは誤りです)、信長に叛いていた松永久秀(弾正)が降伏し、居城である多聞山(たもんやま)城を明け渡し、岐阜の信長の元へ赴きます。その際、「不動国行(ふどうくにゆき)」の刀と「薬研藤四郎(やげんとうしろう)」の脇差を信長に献上しています。戦国時代では、今でいう「短刀」は「脇差」と呼ぶことがあったようで、この資料でも「薬研藤四郎」は「脇差」として扱われています。
資料は福井城址を撮影した写真を用いた絵はがきです。写真から石垣の様子が分かります。福井城の石垣には足羽山で採石された笏谷(しゃくだに)石が使用されました。
また、堀に面した石垣には打込接(うちこみは)ぎ、瓦御門(かわらごもん)周辺や天守台の石垣には切込接(きりこみは)ぎという2種類の積み方を採用しています。
福井城の石垣の特徴は、全ての石が足羽山の笏谷石であること、小さくて運びやすく加工しやすい「切り石」が多いこと、などです。
現在でも堀と石垣の一部が残されており、福井城址の整備が進められてきました。
年未詳 「丸岡藩主有馬氏先祖家系」
三上豊尚家文書(当館蔵)X0149-00028
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丸岡城の城主は柴田勝豊の後、安井家清・青山宗勝・青山忠元を経て、1613年(慶長18)に本多成重に代わりましたが、本多氏は4代で改易されました。ちなみに、成重の父は「日本一短い手紙」で知られる本多重次です。
本多氏の後、1695年(元禄8)に越後糸魚川から有馬清純が入城し、幕末に至るまで8代続きました。清純は藤原純友の末裔ともいわれる肥前有馬氏の出身です。
資料は肥前有馬氏の家系で、初代有馬(藤原)経純から清純までの歴代当主が書かれています。この中には、キリシタン大名として知られ、1582~90年(天正10~18)の天正遣欧使節の派遣に関わった有馬晴信の名もあります。
年未詳「朝倉始末記(写)」
山内秋郎家文書(当館蔵) X0142-00352
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「朝倉始末記」は朝倉氏の興亡を記した軍記物語です。作者や成立年代は未詳ですが、戦国時代の越前の様子を知ることができる資料の1つです。資料は巻3と巻4を写したものです。
1568年(永禄11)、朝倉義景は当時一乗谷に来ていた足利義昭を南陽寺に招いてもてなしました。その際、義昭は一芸のある者に芸を披露するよう呼びかけます。その時、仁木(にっき)義政が義景に推薦したのが真柄直隆(まがらなおたか)・隆基(たかもと)父子です。
直隆は下僕8人で運んできた「太郎太刀(たろうだち)」(長さは9尺5寸=約285㎝、柄は2尺=約60㎝)と下僕6人で運んできた「次郎太刀((じろうだち)」を左右の手に持ち、数回も振り回しました。これを見ていた人々は舌を巻くほど驚いたといいます。また、隆基は2~3人の力持ちで運んできた黒い卵形の大きな石(大きさは4尺四方=約120㎝四方)を10回程、1~2丈(約3~6m)の高さまで投げ上げました。
資料によって数字の違いはあるものの、2人の豪傑ぶりが分かります。
真柄一族は越前味真野(あじまの)真柄(越前市真柄町)に住んでいたといい、直隆の墓は興徳(こうとく)寺(越前市宮谷町)にあります。
1570年(元亀1)12月13日(年代推定)「(朝倉義景感状)」
片岡五郎兵衛家文書(当館寄託) A0027-00008
1570年(元亀元)に朝倉義景が近江国堅田(かただ)における織田信長との合戦で、配下の新開源七の戦功を賞して与えた感状(かんじょう)です。新開氏は代々朝倉氏に仕えていた一族の一つです。同年には姉川の戦いも行われており、この後義景は信長と対決していくことになります。
感状とは、合戦に参加した武将の手柄を賞して出される文書のことです。感書(かんじょ)や御感書(ぎょかんしょ)とも呼ばれます。これは戦功の証明書ともいえるものでした。
ちなみに、義景も鎌倉時代の刀工である粟田口(藤四郎)吉光作の短刀を所持していたことがあり、この短刀は後に「朝倉藤四郎」と称されました。
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