福井城下で江戸時代半ばから行われた「馬威し」は、左義長に関連する小正月の行事でした。現在でも左義長は全国で広く行われていますが、その火祭りの前日に行われた福井城下の「馬威し」は他領にも知られた勇壮なものでした。
画像1はその見せ場のひとつ、左義長飾りの周りを馬で乗りまわす「輪乗」の場面です(1) 。定められたコースを完走しようとする騎馬(武士)と、これを妨害しようとする「威し人」(町人や村人、せぎ手)との間で熱気に満ちた攻防が繰りひろげられました(2)。
シンバルのような鳴り物(にょうはち、鐃鉢)や吹流しなどで馬を驚かせて行く手を阻もうとする「威し人」たち、それを押しのけて進もうとする騎馬、その傍らで騎馬を助けるために鞭を振りあげて「威し人」を制そうとする口取りの付人(駻(かん)縄取)、黒い陣笠を被って刀を担いだ警護人などが生き生きと描かれています。
幕末では、「本威し」の本番の日取りはほぼ1月14日(3)、これに先立って馬を慣らす稽古「下威し」(したおどし)が、だいたい8日頃から13日にかけて行われていました(4)。藩主が在国の際には「馬威し」を上覧することもありましたし、もちろん幕末の福井藩主慶永(春嶽)も何度も観覧していました(5)。元福井藩士でのちに初代福井市長を務めた鈴木準道は「遠国からも見物に入り込む者が多く、市中は余程の賑わいだった」 (6)と回想しています。
「馬威し」には、スポーツのようにルールが定められていました。
「威し」の手段としては、鳴り物や大声に加えて旗や吹流し、蓑などを馬の目前に出して驚かすことが認められていました。しかし手綱や馬具に取りつくこと、障害物で進路をふさぐことは禁止されていました。
その攻防はしだいにエスカレートしていたようで、1828年(文政11)には馬具とともに馬に触れることも藩の触書(7)で禁止されました。このお触れでは藩主松平斉承(なりつぐ)の上覧が予定されている14日の本威しでは、桜御門内に立ち入ってもよいが不調法のないようにすること、「馬から離れておどすならば、武士たちの稽古になるので何をしてもよい」とされました。「馬威し」は「藩士の馬術を競い、軍馬の練習にもなる」(8)と考えられていたのです。
また、この触れは30kmほど離れた越前海岸の村むらまで伝達され書き留められていたことから、この頃には城下から遠方の村びとも「馬威し」の見物に出かけることがあったと思われます。腕自慢の青年が「威し人」として参加したりすることもあったかもしれません。一方騎馬の多くは藩士の持ち馬(9)でしたので、乗手のほとんどは、番士以上の中・上層家臣の当主やその子弟でした。
それでは、明治維新後の「馬威し」はどうだったのでしょうか。 1870年(明治3)には東京にいた春嶽を除いて、勇姫・青松院(春嶽の生母)や藩主茂昭夫妻・信次郎(のちの康荘)らが観覧していましたが、その日取りは1月7日のことでした(10)。例年より1週間ほど早まっています。
福井城下近郊(種池村)の坪川家の日記(画像4)をみると、6日午後に左義長飾りを立て、翌日には「左義長をはやす」とあり、飾りを燃やしていました。これにあわせて「馬威し」も7日までとされたようで、これは「従来正月式(諸行事)を15日限りとしていたが、自今7日までに引き縮めて済ますよう」(▼部分)との藩の達しによるものでした。この達しは城下や種池村などの城下周辺のみならず「町在」(福井藩領全体)に指示されていました(画像5)。
坪川家の日記では、翌年の1871年(明治4)でも1月6日に「福井馬驚(威し)、始る」とあり、7日には「福井馬驚、今日にて相済む」と記されています。1872年(明治5)以降では、左義長飾りの設置や「ハヤシ」はありますが、馬威しに関連する記述は見あたりません。
このように1870年(明治3)の藩の左義長の短縮命令によって「馬威し」は、1月7日までとされ、その後廃藩置県(1871年)によって藩が解体されると中止を余儀なくされました。 すでに69年(明治2)の版籍奉還にともなって家臣の給禄は3割ほどに大きく削減され、翌年から賃貸料が課せられた武家屋敷地では、売却が進んでいきます。通りに面した部分は町屋となったり、商業地に向かない部分には桑や茶、楮等が植えられたり、さらに外堀の埋立てや城郭の塀の解体が始まり、街の景観は変貌していきました(画像6) (11)。
1874年(明治7)年頃では、敦賀県は「馬威し」を「旧俗」として「維新廃藩の後、此俗全く廃す」 (12)と報告していました。
廃藩によって中止された「馬威し」でしたが、1884年(明治17)と翌85年の2年間実施されたことがわかっています。
この再興の中心となったのは、安西関六(13)、関良平(14)の2氏で旧福井藩の馬術師範と馬事を掌る馬方でした。これに魚町辺の若連中を中心に多くの町民が賛同し、200円近い寄付金が集まったといいます。「本町薬屋二文字屋の貸家」に馬威事務所が置かれていました(表 記事番号13)。
とくに安西関六は、福井市街南部の惣木戸の外、赤坂清光院跡(16)を購入して移住し、そこに馬場をつくって牛馬の繁殖を行っており、前年秋にはこの地で、騎馬による競技「打毬」(だきゅう)(15)を実演し、好評を博していました(表 記事番号1)。
84年には、3日から5日を「下威し」に7日に「本威し」が行われました。町々の消防組や近傍近在の「剛の者」が「せぎ手」として揃いの色で染め分けた手ぬぐいや法被をまとってルートとなった「丁場」に充満したと伝えています。
騎馬の数は十余頭と往年の40から60頭に比べると少数でしたが、最初の「一の鞍」には、福井新聞社からも社員が乗り手に参加し、その援助者「かんな取(駻縄取)」は、士族の老練な馬術巧者「大久保・山崎・稲葉・原田・猪子」等が務め、殿乗(しんがり)は、馬方だった塚田氏が務めていました(表 記事番号4~7)。
翌85年では、「一の鞍」「二の鞍」の殿乗をそれぞれ旧藩の馬術師範家の伊藤又太郎、安西五郎吉が務め、「寒鱈」と呼ばれた少年たちも乗り手に登場しています(表 記事番号15)。
さて、この「馬威し」のようすを活写した新聞記事をみなさんも読んでみませんか。 印刷がかすれていて読みくい部分もありますが、このコラムでは紹介できなかった「章魚(たこ)の帽子」を被り「ブリッキ缶」を叩く明治の「せぎ手」たち、見物人の掛け声や通りの2階見物席のようすも描写されていて面白いですよ。
丸岡や東京(三田育種場)でも行われたという「馬威し」(表 記事番号9・10)については、新聞記事だけでは詳細はわかりません。なにより1886年(明治19)年末の記事からは、「馬威し」がこの年にも翌年にも行われた可能性がでてきます。最後の「馬威し」がいつだったかについては、今後も別の新聞や日記・記録類を調査していく必要があります。
柳沢 芙美子(2021年(令和3)2月25日作成)
〃 (2021年(令和3)3月5日加筆修正)
〃 (2021年(令和3)5月4日加筆修正)