Fukui Prefectural Archives
新番格以下2 ヲ~ヨ
福井文書館資料叢書は、福井県の歴史解明において重要で、かつ一般利用者の閲覧要望が多い資料を活字化し解説等を加えて刊行してきました。このうち士分と呼ばれた上級~中級藩士の家臣の人事履歴、幕末期に新たに召しだされた藩士の子弟(303名)の人事履歴を刊行してきました。
2019年度より、新たに下級家臣団約500家(明治以降のいわゆる卒身分に相当する 藩士の系)を対象とした人事履歴を刊行します。第二弾として『福井藩士履歴9 新番格以下2 ヲ~ヨ』を発刊します。
小沢兼吉の養子。1862年(文久2)に浮下代として出仕。68年(慶応4)3月、三岡八郎(由利公正) 付。
1871年(明治4)以降大蔵省、東京府、教部省勤務。72年(明治5)に加藤春夫と改名。77年(明治10)に足羽郡角原村の土地を、78年(明治11)に坂井郡陣ケ岡の土地を購入して土地開発及び農業に従事。坂井郡三国町汐見に養蚕教習所を設置するなど、娘婿の加藤恒蔵とともに明治期の養蚕業を指導。98年(明治31)に養蚕の指導書である『養蚕の手綱』を著す(国会図書館デジタルコレクション)。
吉江定右衛門の子。1857年(安政4)藩校明道館の算科局乗除師。1861年(文久元)算学修行のため上京。
63年(文久3)4月、福井藩が購入した洋式汽船「黒竜丸」を長崎で受け取るため、藩所有の洋式帆船「一番丸」に諸士とともに乗り組む。同年6月測量方となる。その後、検地方、会計寮権少属などを歴任。70年(明治3)5月数学佐教となり、以降数学教育に従事。73年(明治6)、岐阜県師範学校の前身の師範研習学校の初代校長となる。77年『筆算階梯』を編む(国会図書館デジタルコレクション)。
「新番格以下」に収載される福井藩士としては珍しく、江戸時代初期の慶長年間からの記載がある2家のうちの1家(もう1家は中村太兵衛家)。
脇谷又太郎は1602年(慶長7)御作事方手代書役となり、1624年(寛永元)に引退。以後明治維新期まで、脇谷家の歴代11名は卒の家格を保った。
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