Fukui Prefectural Archives
Matsudaira Bunko Theme Exhibition 35
幕末の福井藩では、幕府と同様に藩邸の奥向を「大奥」と呼んでいました。
文久3年(1863)、参勤交代の緩和によって松平春嶽の正室勇姫が奥女中を引き連れて福井城下に引越すと、およそ200年ぶりに正室のいる「大奥」が出現しました。
ここでは、これまでほとんど知られていなかった幕末福井藩の大奥の職制、奥女中たちの出身身分や地域などとともに、その大奥の筆頭でいずれも春嶽に仕えた年寄「磯岡」と「八十瀬」の経歴とエピソードを紹介します。
2021年8月27日(金)~10月27日(水) ※終了しました
福井県文書館閲覧室
「大奥女中分限帳」
松平文庫(当館保管) A0143-01332
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文政3年(1820)頃から廃藩置県前までの福井藩奥女中の役職ごとの人数や諸手当にかかわる申渡し(決定)が記されています。それとともに個々の女中の採用・昇進の年月日、職名等が記された短冊が貼られています(約120名分)。
「福井藩職員録」 1869年(明治2)
松平文庫(当館保管) A0143-01322
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この「職員録」から、廃藩置県前の大奥の役職名や諸手当および奥女中99名がわかります。これ以前では、将軍徳川家斉の娘(浅姫)を正室とした松平斉承の時代の給帳から164名の奥女中を抱える大奥の体制がわかります。
「大奥女中分限帳」
松平文庫(当館保管) A0143-01332
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福井藩士の履歴は、和紙を短冊形に切ったものを用いて管理されていましたが、奥女中についても同様な方法が採られていました。半下や乳持などの下級の女中は1年から数年でやめる場合が多かったようですが、33年間大奥に勤め、年寄となった「磯岡」の履歴は、4枚に渡っています。
『新板改正文政武鑑 巻之四』 個人蔵
奥女中の履歴を記した短冊から、「磯岡」が田安家小普請支配組頭北村貞五郎(定五郎)の妹であったことがわかります。
「親類書(すみ)」
松平文庫(当館保管) A0143-02448
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のちに側室となり貞姫・誠姫の母となる春嶽附の中臈「たま」の親類書です。祖父は亡くなっていますが、御家人(与力)であったことがわかります。父方・母方とも祖父母や叔父叔母、いとこ、兄弟姉妹にいたるまで、詳しく書き上げられています。
小出家文書 福井県立歴史博物館蔵
呉服間格から次、右筆、若年寄格と職階をのぼる際に「もせ」「そて」「八十瀬」と名前を変えています。
小出家文書 福井県立歴史博物館蔵
9月2日、大安寺の山で大量にとれた松茸は奥女中から橘曙覧にも届けられました。翌日、曙覧は八十瀬あてにこの礼状を書くとともに次のような和歌を詠んでいます(『橘曙覧全歌集』709号)。
秋ふくる 西の山寺 いかなりし 岩がきもみぢ そむるそめざる
「御側向頭取御用日記」
松平文庫(当館保管) A0143-00521
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前々日に大安寺から松茸が届けられたのをきっかけに慶応元年(1865)9月2日、春嶽と勇姫は大安寺の山で松茸狩りを楽しんでいます。この時は勇姫も山に入り、近習や馬廻りの者、留守居の者たちに分けた松茸の数から、数百本の収穫があったことがわかります。
「雑類」
松平文庫(当館保管) A0143-01183
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慶応元年(1865)、貞姫(母は中臈たま)の誕生に関わった産婆は、福井城下の産婆「桔梗屋屋津(ききょうややつ)」でした。藩主茂昭の子高麿や信次郎(のちの当主康荘・母は八十瀬)の出産にも関わり、すべて大奥において誕生したと記されています。
「起請文(起証文前書之事 乳持)」
松平文庫(当館保管) A0143-02446
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松平文庫に残る起請文は、広敷役人を含めてすべて大奥関係のものです。服務規程ともいえる前書きには、広敷役人と同様な機密保持条項等とともに、食事への入念な注意を義務づけていました。魔除けの護符の裏に前書きに背いた時には神仏の罰をこうむることが書かれており、血判が押されています。
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