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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    二 総合農政下の農業
      生産調整の開始
 一九七〇年(昭和四五)二月、農林省は福井県に七〇年度の米の生産調整の割当目標量として、一万五二〇〇トン、面積三三三三ヘクタールを提示した。これに先立って福井県が行った試算では、生産調整可能と見込まれる面積は、土地改良の七割を通年施行とすることで一二〇〇ヘクタール、山間地の植林一〇〇ヘクタール、野菜・果樹への転換五〇〇ヘクタールの計一八〇〇ヘクタール程度であったから、予想をこえる割当数量は、県をはじめ各市町村・農業団体・農家に強い反発と不安をもたらすことになった(『福井新聞』70・1・8)。
 しかし、米過剰の現実の前で食管制度を維持するためには減反が避けられない情勢に加え、この間、中央段階での種々の交渉によって、農林省の当初計画(福井県の場合、二万二九〇〇トン、五〇〇〇ヘクタール)から三分の一が水田転用分として差し引かれたことや、国の生産調整奨励金が休耕・転作の別なく一〇アールあたり平均三万七五〇〇円程度に引き上げられたことなどもあって、県内に大きな不満を残しながらも、割当数量の各市町村・各農家への具体的配分が協議されることとなった。
 具体的配分の過程において、県内では各農協や市町村が「指導費」その他の名目で独自の上積み等の対策を講じ、また、各農家への割当を各集落生産組織をとおして行った結果、七〇年三月には、県への割当数量を全量消化する見込みが立つまでになった。そして、七〇年度福井県の生産調整の総面積は、最終的に、割当数量を上回る約四二〇〇ヘクタールに達した。その内訳は、完全休耕が二三五四ヘクタール(五三・四%)でもっとも多く、ついで夏季施行土地改良分が一三一二ヘクタール(三一・二%)、残りが転作分の六四〇ヘクタール(一五・四%)であった(『福井新聞』70・9・7)。このように県内の農家の多くが稲作への復帰を想定した休耕や土地改良を選択したのは、減反はあくまで緊急措置という受け止め方によるところが大きいが、それとともに、湿田や降雪が多く転作に不適な水田条件、経験のない転作への不安、指導体制の未確立等の要因も影響していた。
 しかし、米の生産調整は、前述のように、七一年度からは複数年度にわたる計画となり、長期化・本格化して今日まで継続されることになる。表162はこの間の福井県に対する割当と実施状況を示したものだが、八〇年代から九〇年代にかけて目標面積が大きく拡大し全水田面積の二〇%を上回る状況となった。

表162 米の生産調整の目標と実績 

表162 米の生産調整の目標と実績 
 こうした減反の拡大と長期化は、当初右記のような休耕によるきり抜けをはかった県内農家に対応の変更を迫り、減反によって目減りした農業収入を補うためのさまざまな模索を強いることになった。その一つは、転作作物の栽培拡大であった。減反開始当初から福井県においても、野菜類、飼料作物、豆類、さらにはイチゴ・メロン・スイカなどの栽培が試みられたが、七〇年代後半から八〇年代にかけて、転作奨励作物である麦類・大豆・ソバなどが集団転作というかたちで作付けを拡大し、その結果、減反面積の八割以上が転作されるようになった(福井県『農林漁業の動き』)。こうした転作への本格的な取組みは、一部には稲作なみあるいはそれ以上の収益をあげる作物や産地を生み出したが、しかし、全体としては、水稲収入の目減りを補填しきるまでにはいたらず、今日なお模索が続いているのが現状である。
 他方、以下にみるように、減反を契機に稲作そのものの質的転換や近代化をはかりつつ、同時に、従来からの兼業化をいっそう押し進めるかたちで、農家経済を維持しようとする動きも急速に強まった。



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