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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    二 総合農政下の農業
      「総合農政」と生産調整
 こうした「米過剰」の表面化と前後して、政府はあらたな農業政策の方針を打ち出した。すなわち一九六八年(昭和四三)七月、西村直己農林大臣の提案以来、農政審議会への諮問と答申を経て、七〇年二月に決定をみた「総合農政の推進について」である。そこでは、(1)近代的農業の育成、(2)離農の促進、(3)食糧の安定的供給、(4)価格の安定と流通加工の近代化、(5)農業所得の確保、(6)新しい農村社会の建設、などを柱とした種々の施策の実施が提案された。「総合農政」は、一方では、高度経済成長の進展にあわせて従来以上の規模と生産性を想定した「自立経営」の育成を掲げて、「農地法」や「農協法」の改正(七〇年)などを通じて、農地の流動化と規模拡大への条件整備を行うとともに、他方では、農村部への工場分散、農業者年金の創設などによって、零細農家の離農促進と兼業農家の就業機会拡大をはかろうとした。また、とくに米については、その需給状況をにらんで、所得補償より需給実勢にあわせた方向への価格政策の転換(米価抑制)、自主流通米制度の発足(六九年)、そして、米の生産調整(いわゆる「減反」)を打ち出した。
 稲単作を基調とする福井県においては、「総合農政」のもとで打ち出された米の政策転換はとりわけ重大な意味をもった。それまで一〇%前後の幅で引き上げられていた生産者米価は、六八年には前年比五・九%の上昇に抑制され、六九年には完全な据置きとなった。さらに、米の生産調整は、六九年の実験的実施(目標一万ヘクタール、実績五五〇〇ヘクタール)を経て、七〇年にはまず単年度の措置(「米生産調整緊急措置」)として、全国生産量のほぼ一割にあたる一五〇万トン(うち五〇万トン分は工業用地・住宅用地・道路などへの転用、のこり一〇〇万トンは休耕および転作)の減産が目標に設定された。この結果、全国では一三九万トンの減産(減反、三三万八〇〇〇ヘクタール)が行われた。さらに、翌七一年からは、五年間の「稲作転換対策」の初年度として、二三〇万トンに調整目標が拡大された。そこでは、休耕した場合の奨励金が減額(七一年)、ついでうち切り(七三年)等の手直しがされた。その後、米の生産調整は、七六、七七年度の「水田総合利用対策」、七八年度から八五年度まで三期九年間にわたる「水田利用再編対策」、八七年度から九二年度までの「水田農業確立対策」、九三年度以降は「水田営農活性化対策」と、名称を変えながら今日まで継続されてきた。とくに、七八年度からの「水田利用再編対策」以降は、減反拒否に対するペナルティ制度、集団転作への奨励金制度などを加えて、生産調整は長期化・本格化して、全国平均では水田面積の約三割までが恒常的に転作作物に振り替えられることになったのである。



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