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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    二 総合農政下の農業
      「米過剰」の表面化
 一九六〇年代、米の生産は全国的に増加の傾向を示した。作付面積は、五〇年代と比べて、微減ないし横ばいであったが、栽培技術の進歩や機械化の一定の普及など生産面での条件向上によって平均収量が増大したためであった。とりわけ、一九六七年(昭和四二)から六九年の三年間は、全国の生産量が連続して一四〇〇万トンを上回る史上最高水準の豊作となった。福井県の生産量も、六八年の二三万八一〇〇トンを最高に連年豊作を記録した(図76)。
図76 米の反収・収穫量・作付面積(1960〜80年度)

図76 米の反収・収穫量・作付面積(1960〜80年度)

 六一年からはじまった基本法農政は、本来、野菜・果樹・畜産など消費拡大が見込まれる農産物の「選択的拡大」を誘導し、米の生産過剰を回避しようとするものであったが、それにもかかわらず米の生産が増大した背景には、いくつかの要因が存在した。まず、圃場整備と機械導入を軸にした構造改善事業の実施、化学肥料・農薬の普及、そして、これらと連動した栽培技術の進歩など、生産諸条件の進展がある(第五章第三節一)。このことによって稲作の生産性向上と大幅な省力化がもたらされた結果、米は、比較的生産が容易でそれなりの安定的収量の見込める作物となった。とりわけ、県内農家の大半を占める兼業農家にとってその意味は大きかったといえよう。また、価格の面でも、米は、食糧管理制度のもとで全量買取りが保証され価格も安定した作物であった。しかも、一九五〇年代後半六〇キログラムあたり約四〇〇〇円強に抑制されていた生産者米価は、六〇年代に入ると、年率六%から一三%の高い伸びを示し、六〇年代末には六〇キログラムあたり八〇〇〇円台に達したから、米はいっそう有利な作物となった。さらに、この時期全国各地で米の増産政策が展開されたことも見逃せない。福井県においても、六六年から「豊かな米づくり運動」が、六八年からはそれをさらに拡大強化した「反収日本一米づくり運動」が、県・市町村・農協が一体となって展開された。
 これらの要因が連関しつつ作用することで、農家の米への生産集中と増産体制が進むことになった。一方、米の国内消費量は、六〇年代前半には依然として国内生産量を上回る水準で推移し、そのため六四、六五年の冷害年には一〇〇万トン以上の緊急輸入が行われることにもなった。しかし、「食の欧米化」など国民の食生活の変化にともない、国内消費量は六三年の一三四一万トンをピークに、しだいに低下傾向を示すようになった。こうした状況において、気象条件にも恵まれて六七年から六九年の連年豊作が生じると、米の需給はいっきょに転回した。そして、政府持越し在庫(いわゆる「古米」)が六九年には五五三万トン、七〇年には七二〇万トンとなり、生産者米価と消費者米価の逆ざやから生じる「食管会計の赤字」も増大して、「米過剰」が大きく問題化することになったのである。



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