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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    五 合併後の市町村行政
      新市町村計画と財政の苦境
 「町村合併促進法」とそれに続く「新市町村建設促進法」のもとでの合併により誕生した新市町村は、それぞれの計画にもとづいて町づくりを進めていったが、その過程でさまざまな問題点に直面し、文字どおり産みの苦しみを味わうことにもなった。ここでは、町村合併後の市町村の歩みについて、金津町の例をもとにみていきたい。
 各町村は、合併にさいして新市町村計画を作成し、町づくりの基本的方針を示した。金津町の「新町建設五か年計画」では、小・中学校七校の増築、公民館の建築、道路・橋梁改修等の土木事業、産業振興事業、授産施設、保育所、公営住宅、総合病院、隔離病舎、公園、総合グラウンド、水道、ごみ処理施設等の福祉・保健事業や、町営バス、町営温泉、浴場等の公営事業などが計画された。
 しかし、これらの事業費の財源をみると、総額六億八四〇四万円のなかで国および県の補助が二七・〇%、起債が六七・五%であり、自己財源は五・五%にすぎなかった。起債や補助などの依存財源については、町議会議長が「国や県に対して陳情に陳情を重ねて、はたしてどの程度確保出来得るか」と述べるような状況であった。これらの新市町村建設計画は、合併する時に各町村の要望を幅広く盛り込んで作成したため、合併後の市町村の財政を圧迫する要因となった。
 福井県の市町村財政は戦後まもなく赤字となり、その後も一九五九年(昭和三四)に市町村全体の実質収支が黒字に転換するまで続き、自治体はその対策に苦慮した。政府は五五年一二月に成立した「地方財政再建促進特別措置法」のもとで赤字団体の解消につとめた。福井県では武生、勝山、鯖江の三市と松岡町など七町村の一〇団体が五六年度から六一、六二年度にかけてこの適用をうけた(福井県『地方自治三〇年の歩み』)。金津町では、五七、五八年の「なべ底不況」による地方税の伸び悩みや新町五か年計画の実行、とくに吉崎温泉郷開発費により起債が累増し、五八年度には決算における赤字が総額四九五〇万円に膨張した。町長は県の強い指導をうけて五九年に財政再建計画を立案し、五か年で財政再建をめざした。
 このために、金津町は投資的事業を抑制し、支出を切り詰め緊縮財政を実施した。町財政にとって、大きな打撃となったのは自然災害であった。金津町は、五八、五九年の風水害で河川の災害復旧事業を行い、町の新規事業は圧迫された。この時は、「財政再建整備計画の実施と災害のため、土木行政を転換し、新規、不急の事業は延期し、災害復旧に全力を傾注」(土木課長)という状況であった。その後、景気が回復し、五九年の「岩戸景気」など高度経済成長が続くなかで、町財政は好転し計画以上に起債の償還が進み、計画第四年度(六二年)で完全に返済することができた。
 金津町は赤字財政対策として、早くから人員の整理や事務機構の改革に着手し、五六年には七課制を四課制に改め、二二名の町職員を整理し、五九、六〇年には役場支所を廃止した。福井県は五七年より事務処理の合理化、能率化をめざし窓口業務の一本化、戸籍簿などの簿冊のカード化に重点をおいた事務改善について各市町村への指導を積極的に進めた。金津町は六一年に役場事務機構改善委員会を設置し事務の能率化と住民サービスの向上について研究調査を進め、六二年に窓口業務を一本化し、文書管理集中化を進めた(金津町『町づくり二〇年』)。



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