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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    一 「地方の時代」の政治構造
      国会議員の交代
 さきに記したように(第五章第一節一)、一九六三年(昭和三八)の第三〇回衆議院議員選挙で当選した福井県選出衆議院議員四人の顔ぶれは、七六年の第三四回選挙で植木庚子郎と堂森芳夫が落選するまで不変であった(表66)。植木、堂森も福田一、坪川信三も六三年が初当選というわけではなかったから、福井県ではかなり長期間にわたって、同じような顔ぶれを代議士に選出してきたことになる。長らくつとめた四人は植木をのぞく三人が戦後第一回衆議院議員選挙より立候補していたことからもわかるように、戦後の第一世代に属していたといえる。
 七六年一二月の衆議院議員選挙は、いわば世代交代のはじまりを示す選挙だった。植木、堂森に代わって当選したのは自民党の公認を得られず無所属で出馬した平泉渉と県労評の支持を固めて社会党左派を代表した田畑政一郎であった。また、落選はしたが無所属で立った牧野隆守も健闘したし、民社党の横手文雄も出馬し、この両名は次の七九年一〇月の選挙で初当選を果たした。公明党もはじめて候補者を出したこの七六年選挙は多党化のきざしをみせた選挙でもあり、選挙民の意識が変わって党公認にさしてありがたみのなくなっていく傾向を示した選挙でもあった。当選はしたが坪川信三は七七年一一月、在職のまま死去する(『福井新聞』77・11・21)。七六年選挙以降、衆議院議員選挙をめぐる福井県の政局は流動化することになったのである。
 参議院議員については、偶数回の選挙では熊谷太三郎が六二年の第六回で当選して以降、死去するまで五期三〇年にわたってその地位を守った。奇数回の選挙については、七一年の第九回戦挙において社会党の辻一彦が現職の高橋衛を敗った。辻は青年団活動より頭角を現わし六五年より参議院議員選挙に挑戦していた。しかし、偶数回の熊谷の壁は厚く、奇数回もこの一期のみで七七年の第一一回選挙には全国区から地方区にまわった自民党の山内一郎に議席を取り戻されている。
 辻は八〇年の第一二回参院選の敗北の後、衆議院議員選挙に転針した。社会党は衆議院議員選挙において、七六年選挙まで党内の左右両派より一人ずつの候補を立てていたが、八〇年の衆参両院選挙の敗北から翌八一年の党県本部大会で候補を一本化する方針を掲げた(『福井新聞』81・6・29)。これに逆らって辻は八三年選挙に無所属で立ち、党公認の田畑を追い落として当選した(『福井新聞』83・12・9)。



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