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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    一 「地方の時代」の政治構造
      臨工・原発と中川知事
 高度成長は一九七三年(昭和四八)末の第一次石油危機で唐突に終わりを告げた。成長を前提とした政策は見直さねばならなくなった。福井県におけるその典型が臨海工業地帯の造成であった。七二年三月の定例県議会において用地造成事業予算案を通過させたときに、これに反対する山本治県議会議員の質問に答えて、中川知事は自信をもって財政の硬直化はないと言い切った(『第170回定例福井県議会会議録』)。しかし事態は、工業用地の売却代金がすぐに入るし企業が操業を開始すれば県民所得の向上が税収に跳ね返ってくるので大丈夫だとする中川の希望的観測を裏切り、臨工は県財政を圧迫する重荷となってしまったのである(第六章第一節二)。
 中川が臨工について愁眉を開くのは、八三年に五選を果たした後の最末期である。逆にいえば彼は、臨工が際会した困難ゆえにこれを投げ出すことが許されず、県知事を辞めて国会にうって出ることができなかったともいえる。自民党政権の中枢と直接の接触をもっていたといわれる中川は、派閥の領袖たちにとっても自派に取り込みたい魅力ある候補であったろう。福井新港の着工については福田赳夫が力を貸したし、福井空港よりの全日空定期便撤退後の東亜国内航空との交渉や北陸新幹線、福井医科大学の設置などをめぐっては田中角栄が助力した(土田誠『四人の知事 戦後の福井県政四〇年』)。福井県選出国会議員からすれば、自らの地位を脅かすかもしれない有力新人候補となりうる中川には県知事を長くつとめさせておきたかった。中川の側からすれば、衆議院・参議院議員選挙への中川出馬の可能性を材料に県選出国会議員との微妙な協力関係を築いていったといえる。
 以上のように臨工は、経済の様変わりと国の開発政策の急転換の狭間にあって県政上の最大の困難となって残り、そのことが中川の政治家としてのキャリアに大きな影響をあたえたものであると理解することができる。これに対して中川にとっての原子力発電所新増設問題の政治的意味を読み解くことは難しい。臨工が中川のはじめたことであったのに対して、原発の誘致を決めたのは北栄造前知事であった。中川には原発は与件としてあった。たとえば高速増殖炉についても当初は慎重な態度をとっており、このことが七七年一一月に科学技術庁長官となり任期中にもんじゅ建設同意をとりつけたいと考えていた熊谷太三郎参議院議員(自民党県連会長)との関係を悪化させた(土田誠『四人の知事 戦後の福井県政四〇年』)。しかし、中川のいう「県民党」の重心が、徐々に自民党に近づいていくにつれて、原発は彼の政策的な梃子となっていく。臨工で苦しんでいた中川は、自民党勢力が圧倒的な県議会との交渉のなかで、国のエネルギー政策への協力を誓わされて高速増殖炉のみならず、軽水炉の増設についても次々と同意をあたえていくが、しかし同時に、したたかにもこれを材料に中央との交渉を行い、さまざまの「県益」を引き出した(第六章第一節三)。原発をめぐる中川県政の評価それ自体は別にあるべきだが、政治を「可能性の技術」と理解するならば、きびしい条件のなか、よく奮闘した知事であったというべきなのかもしれない。



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