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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    一 「地方の時代」の政治構造
      中川知事と県議会
 高度成長から安定成長へ、中央主導から「地方の時代」へと時代が大急ぎで舵をきった時期に県政を預かった中川知事と県議会との関係を振り返ってみよう。中川知事は県議会との関係のなかで「県民党」と呼んだ共産党をのぞくオール与党体制を築き、その「県民党」のなかで重心を巧妙に探りながら長期の県政を維持した。そして、最後には県議会議員のなかから多選批判も出て勇退するのである。
 一九六七年(昭和四二)の統一地方選挙は初の労農提携知事を生み出したばかりでなく、県議会にも一五人の新人を送りだした。保守系の新人たちは県会自民党に合流せず彼らが中心となって政新会(一四人)なる会派を結成したので、議会は、この政新会に加え長老議員を中心とする自由民主党(一四人)、旧刷新連盟系議員からなる自由クラブ(四人)、無所属クラブ(三人)、社会党(五人)、民社党(一人)の六会派からなる小会派分立の状況となった(『県議会史』6)。社会党、民社党をのぞいてあとはすべて保守系議員で、自民党の党籍をもつ者も多かったが、知事選を含む「黒い霧」に端を発する一連の争いで関係はこじれており、保守合同は困難であった。中川知事との関係でいえば労農提携の関係で、社会党、民社党、および農政連公認・推せん議員が与党ということになる。しかし農政連の公認・推せん議員が政治的にまとまって行動しているわけではなく、知事はどちらかといえば、県政浄化を唱えて議長経験者を中心とする長老議員と一線を画した新人議員たちのなかに、自らの支持勢力をみつけていこうとした。
 「黒い霧」の当事者たちの争いは比較的早く調整されたが(『福井新聞』68・1・19)、その後も県議会は新人議員たち(北川昭治、桑森邦夫、関捨男、山本順一ら)と長老議員たちとの世代間抗争の様相をおびて混乱を続けた。新人たちは長老議員たちからなる県会自民党主導で進む県議会の運営に反発し、六九年九月に政新会を中心に自民党同志会なる新会派をつくった。嶺南出身の県会自民党所属議員三名と無所属クラブ所属議員二名が合流して一八名の最大会派となり、知事よりの姿勢を示したのである(『福井新聞』69・9・17)。同時にすべての議員が自民党の党籍を取得した。彼らは最大会派として再三議長の交代を求め、議長不信任案を二度提出し、一度はこれを成立させたが不信任決議そのものに法的拘束力はなく、笠羽清右衛門議長はついに、その任期満了まで議長職をつとめた。四年間議長職をつとめた議員は彼がはじめてであった。少数派になったが政治的力量ではまさる長老議員たちと多数派の新人議員たちの角逐は勢力が拮抗していて、県民不在の県議会空転が続くこととなり県民の批判を浴びることになった(『福井新聞』70・3・22、5・25、6・24〜27)。
 中川知事は県議会において政治的立場を問われ「私は七五万県民党である」と答えたが、一期目においては、知事も県議会議員の側もたがいの関係を模索していたといえよう(『福井新聞』69・3・6)。七一年四月の二期目の選挙に臨んでは自・社・公・民四党の推せんをとりつけ、あらためて県民党の立場を掲げた(『朝日新聞』71・3・10)。自民党としては、一期の混乱を通じて県議会の自民党議員の一本化はならず、中川に代わる知事候補をみつけだすことができない以上、北知事をかついで敗れた知事選の轍を踏むことはできなかったからである。中川は労農提携の枠組みを維持しながら自民党にも歩み寄り、共産党をのぞく県内のすべての政治勢力と巧みに一定の距離を保ちつつも協力関係を築きあげ、多選の基礎をつくりあげていった。以後、五期目まで一貫して農政連公認、四党推せんは変わらない。なお、県議会では、七五年の選挙で公明党が初議席を獲得し、以後一議席を維持した。他方、中川の二期目以降唯一の野党となった共産党は、七一、七五年と一議席を確保したが、七九年の選挙で議席を失った。
 さて、県議会の保守勢力の争いは、六七年に初当選した議員たちが期を重ねるにつれ彼らが主導権を握るかたちで収束していった。正副議長職をめぐる争いはむろんなくなったわけではなく、時には会派の分裂騒ぎが行われたりもしたが、六七年当選組の有力議員たちの連携は所属会派や会派内派閥を横断して保たれた。七三年六月には七年ぶりに県議会での保守合同がなった(『読売新聞』73・6・27)。県議会の自民党所属議員の求心力がこうした有力者を中心に働きはじめることで、彼らは自民党県連内でも力をもちはじめる。七七年参議院議員選挙において自民党の山内一郎が社会党の辻一彦に一万三〇〇〇票差まで追いつめられたこともあり、自民党では党組織の強化をはかるために党県連役員の主要ポストと県会自民党の主要ポストを連動させる役職指定方式への改革をはかった(『福井新聞』78・1・12、79・5・5)。
 社会党は中川県政の発足時点では労農提携で知事選に勝利した与党であった。しかし、その後、中川県政最大の政策的争点、臨工と原発をめぐって彼との距離を取りはじめる。七三年二月定例県議会において社会党議員五名は自民党議員三名と「福井臨海工業地帯におけるアルミ精錬企業の誘致および共同火力発電所の建設に反対する決議」を共同提案した(『北陸中日新聞』73・3・21)。これは「福井県住民組織連合会」による公害反対運動をうけてのものだったが、賛成少数で否決された。中川与党と目された社会党がこの決議案を提出し、さらに、臨工にからむ予算案四件にはじめて反対したとあって注目された。また、中川が七九年の四期目出馬にさいしてはじめて自民党と政策協定を結び、国のエネルギー政策に「積極的に協力する姿勢を打ち出す」としたこともあり(『福井新聞』79・2・26)、このことでも社会党との距離は開いた。しかし最後まで社会党も公・民両党も野党にはならなかった。それぞれの会派との微妙な問題をはらみつつも、中川に代わる知事候補をみいだせない点では各党とも事情は自民党と同じで、オール与党体制は維持されたのである。
 三期目(七五〜七九年)から四期目(七九〜八三年)にかけて、県議会には反中川の気運が盛り上がったことがあった。七六年に、福井市農協会館建設にからんで県が土地ころがしに荷担したのではないかと疑われた、いわゆる明里公用地事件がおこり、県議会は特別調査委員会を設置し地方自治法一〇〇条による調査権を行使して調査にあたったが、知事には行政上の責任はないとの結論を下した(『読売新聞』76・4・24、『福井新聞』76・6・3、7・4、9・8)。事件としては県は預かり知らぬという決着であったが、中川県政に負のイメージがもたれたことは確かだった。また、四選は長すぎるという多選批判もはじまり、当時の別田重雄県会自民党会長をはじめとする自民党県連内の反中川グループによる、中川に代わる知事候補を探す動きがあった。六七年初当選組の有力議員たちもこれに加わりなかには積極的に周旋に動いた人もあったが、結局はめぼしい候補がみあたらず、この時は上述のような政策協定を取り交わすことで沙汰やみになった(土田誠『四人の知事 戦後の福井県政四〇年』、『福井新聞』79・1・18、2・8)。
 こうした動きがふたたび活発化したのは中川の六選出馬断念の時であった。自民党県連に属する反中川の県議会議員を中心とするグループの動きがこの時は成功したのである。八六年暮れから新年にかけての急展開であった。当初出馬するとした中川知事が出馬を取り下げ、中川多選を阻止するとして立候補を表明した山本順一県議会議員と池端昭夫県議会議員がそれぞれ出馬を取りやめて、最終的には自治省出身で七七年六月以来、中川のもとで副知事をつとめてきた栗田幸雄が中川の後を受け継ぐこととなった。八六年一二月九日の中川、山本の出馬表明から八七年一月二四日の池端出馬辞退表明までの約五〇日間の前哨戦によって、栗田を選び出した知事選は事実上けりがついた。この間、反中川の坪川貞純県議会議員や東郷重三県議会議員が次期県議会への出馬を辞退して山本知事実現のために全力を注ぐとして動いた、とか、栗田を支持する自治省OBグループの強い働きかけがあったとかが語られている(『福井新聞』87・1・25、27、29〜31)。その事情の詳細をつまびらかにすることは本稿の任務ではない。ともあれ、中川五期二〇年の間保たれた微妙なバランスは、この時ついに破綻し中川県政は終わることとなったのである。
写真102 栗田幸雄

写真102 栗田幸雄




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