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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    一 「地方の時代」の政治構造
      新全総と列島改造論
 本節では、中川平太夫知事の五期二〇年(一九六七〜八七年)にわたる県政を取り上げる。彼の在任期間は、高度経済成長後半期から、石油危機によってこれが終焉を告げ、いわゆる低成長、安定成長へと切り替えられていった時期に相当する。
 中川知事が就任した一九六七年(昭和四二)には高度経済成長はなお続いており、国でも新全国総合開発計画(新全総)の策定を進めていた。六九年五月に閣議決定される新全総は、旧全総の拠点開発方式をさらに巨大化した大規模開発プロジェクト方式をとった。旧全総が結局は三大都市地域に人口と富を集め地域間格差を拡大する結果をまねいたことに対して、新全総は北海道・東北や九州に「拠点」をはるかにしのぐ巨大工業開発基地をつくり、国土全体を結ぶ情報通信網、新幹線鉄道網、高速道路網、航空網、大規模港湾などを築いて日本列島を時間距離的に再構築し、開発可能性を全国土に拡大し均衡化するという処方箋を描いた。福井県については福井市を地方中核都市として整備するほか、福井新港と敦賀港を整備し、北陸自動車道建設を急ぎ、北回り新幹線の計画を進める。また、嶺南を中心に原子力発電による新エネルギー供給基地建設を進め、若狭湾と白山をむすぶ大型観光ルートを設定する、などとされた(『福井新聞』69・5・4)。
 高度成長のひずみが人びとの意識にのぼるようになった時期に、さらなる巨大開発をすすめることにより地域間格差は解消され、環境や福祉についての問題解決は追随するであろうという処方箋を描いたのである。「産業基盤の公共投資の集中―重化学工業の誘致―関連産業の発展―都市化・食生活の変化―周辺農村の農業改善―所得水準の上昇にともなう財政収入の増大―生活基盤への公共投資・社会政策による住民福祉の向上」という経済中心主義の図式が新全総においても踏襲された。財政的に中央に依存している地方は、こうした中央の計画にあわせてそれぞれの夢を描いた。地方はそれぞれの内発的発展をはかるのではなく、中央による経済発展中心主義的な国土計画にあわせて重化学工業を誘致することにより、それぞれの地域開発をはかろうとしたのである(本間義人『国土計画の思想』、宮本憲一『日本の都市問題』)。
 この開発最優先の思想は、田中角栄の総理大臣就任(七二年七月)により「日本列島改造論」という名の実施計画をもつことになった。高度経済成長による税収の飛躍的な伸びを前提にばく大な公的資金を全国土にばらまいていくという考え方は、就任当初の田中の「今太閤」人気とあいまって、国民からは総じて歓迎された。とくに成長の利益を十分享受していない地方において格差是正への期待が高まった。列島改造論は地域開発に関連して通信網や全国土を結ぶ高速交通網(新幹線・高速自動車道・空港)整備はもとより、地方都市整備政策としてインダストリアルパークを含んだ二五万都市の建設を提案していた。前者はもちろん通信網、交通網整備を管掌する諸省の事業計画を刺激したし、二五万都市建設計画は自治省の広域市町村圏と建設省の地方生活圏という実施レベルでの圏域行政につながっていった。さらに通産省や運輸省もそれぞれの地方都市計画整備事業を提案した(蓼沼朗寿『地域政策論』)。財政的に中央に依存している地方の政治アクターは中央の資金導入のために奔走するわけだが、中央では国土開発計画を統括し総合調整を行う省庁がなく(国土庁の設置は七四年)各省にまたがる実施計画が錯綜しているため、地方よりの陳情圧力は個々の事業官庁や各省に対する発言力を有する有力政治家にむかうという新産都市をめぐってみられた図式が、列島改造論の時期にもみられることになった。
 中川知事は県議会での答弁において、八五年を目標年次とする「県の長期構想も列島改造も発想は同じで、列島改造は県の長期構想をバックアップするものだ」と答えている(『サンケイ新聞』72・12・14)。交通通信網ネットワーク整備は北陸新幹線の建設に、工業再配置は福井臨海工業地帯(臨工)造成計画に重ね合わせてみられていた。臨工の整備は、県の工業出荷額を飛躍的に増大させるための切り札であった。これは、公共投資を集中して臨海工業地帯の基盤整備を行い、装置型の重化学工業を誘致することを経済の跳躍台にするという新全総の考え方に一致する。そうであるがゆえに、臨海型開発の限界が明らかになり、高度経済成長を前提とする開発政策の破綻が明らかになってからは、中川県政の最大の重荷となるのである(第六章第一節二)。
 列島改造ブームは各地でのさまざまな開発構想を生む。各種巨大プロジェクト実施の期待から全国的な土地投機が進み、七一年八月のニクソン大統領による金・ドル交換停止(いわゆるニクソンショック)に端を発する過剰流動性がこれに拍車をかけた。この土地投機には政治家や地方公共団体も巻き込まれていき、さまざまな汚職、疑惑を生み出していくことになる。田中は第一次石油危機(七三年末)により経済成長の時代が終わり高度成長を前提とする全国的開発政策の破綻をみるなか、土地投機の過程での疑惑を追求され、また、狂乱物価の責任を問われ、地価の高騰という負の遺産を残して挂冠した。



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