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 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
    五 内陸型工業の発展
      工業団地の造成
 市街地に散在する中小企業を集団的に郊外に移転させ、設備の近代化・適正規模化、共同事業の実施、労働者の福利厚生の充実等をはかる、いわゆる工場集団化の試みが開始されたのもこの時期であった。一九六一年(昭和三六)三月「中小企業振興資金等助成法」が公布され、国庫補助、低利融資、課税特例措置などの助成措置がはかられることになり、全国で六一年度一〇件、六二年度二〇件、計三〇件が指定工業団地とされ、福井県では、鯖江工業団地として、染色工業および眼鏡枠工業の工場集団化が決定された(『通商産業政策史』11)。しかしながら、栃木県の足利トリコット団地のような少数の成功例をのぞくと全国的に指定工業団地計画の進行は滞り、福井県の二つの団地の場合も例外ではなかった。
 染色工業団地は、当初計画では鯖江市下河端町、鳥羽中町周辺の約三七万五〇〇〇坪(うち工場用地は約二六万八〇〇〇坪)を三か年で造成し、立地予定企業数二一(福井県染色工業協同組合傘下の一二、関連梱包業者四、製函業者四、彫刻業一)、所要総資金約四三億円と、計画段階における診断でも、全国の他の団地計画に比べて、図抜けて大規模な計画であることが指摘されていた(『福井県染色工業団地診断報告書』)。六五年八月、団地化計画のリーダーであった丸三染練が経営破綻に陥るとともに、補助金をあてにした当初計画の甘さ、計画推進の不手際と参加予定企業間の不信感の高まりなどで計画は頓挫し、造成にともなう累積負債が一六億円あまりとなった。同年一〇月に県染色工業協組は臨時総会で新理事長に浦瀬信雄を選出し、染色団地の再建案を協議した。六六年八月の再建案では、六五、六六両年度を休止期間として景気の回復を待つとともに、(1)規模を約一〇万坪に縮小し、余剰地を売却して負債整理にあてる、(2)浦瀬染工が既設の共同作業場を賃借して操業する、ことになった。六七年九月の臨時総会では団地組合の改組整備が行われて昌和染織、桜川興業など五社の脱退と二社の新規加入を認めるとともに、団地計画区域を五万坪弱に縮小変更し、計画最終年度を六九年度とした。こうした規模の縮小と合繊業界の長期的な好況により、ようやく団地化計画は軌道にのり、七〇年一一月、団地に進出した浦瀬染工・長豊染工・幾久工業の三社が合併してウラセ合同染工を設立、七〇年度より三か年計画で構造改善事業を実施することとなった(『福井県染色工業団地診断報告書(建設診断)』、『同(運営診断)』、『企業合同計画診断報告書 ウラセ合同染工株式会社』)。
 一方、眼鏡団地は鯖江市の丸山町、琵琶山の約一万二〇〇〇坪を対象に、当初三三名の団地組合員でスタートした。その後の鯖江市の都市計画により対象地が半減し、隣接する吉江町に不足分を求めることになったが、すでに当初計画地に対する国の助成が決定されていたため、この分については組合員の自己資金調達が前提となるという、造成上の困難に直面した。六五年八月に団地の整備が完了したが、積極的な進出意欲が生じず、六七年三月段階の組合員数は二二名に減少し、なおかつ団地内に移転を行った業者が五名にすぎないという停滞状況であった(『福井県工業団地診断報告書(巡回指導)』)。
 こうした国の助成措置をうけて造成された工業団地は、補助金への安易な依存、計画の融通性の欠如などにより、所期の成果をあげることができなかったが、自治体の工業用地取得の支援をうけつつ中小企業が自主的な工場集団化をはかる小規模な団地化計画は、比較的順調に進行した。その典型は、福井県機械工業協同組合(理事長武田実)により福井市東部の若栄町で計画された福井県鉄工団地である。鉄工団地は六三年に福井市のあっせんで約四万坪の規模に二〇社程度の進出を予定して造成が開始され、六六年から福井鉄工を皮切りに工場移転を開始した。高周波熱処理をはじめとする共同施設の設置にも意欲的で、進出企業も急速にふえ、六八年末には、宇野鉄工所、中防鋳造鉄工所など一〇工場を数え、県工業試験場金属機械科もおかれた。こうした小規模な機械工業団地計画は、このほか福井市では西部の下江守町、南部の下江尻町で実施され、また七〇年代に入ると「農村地域工業導入促進法」(七一年六月)、「工場再配置促進法」(七二年六月)の制定により工業団地造成に拍車がかかり、武生市池の上町・王子保地区、鯖江市当田町、坂井町五本・定旨などでも計画の進捗をみた。



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