目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
     四 合成繊維への転換
      合繊原糸生産の動向
 一九六二年(昭和三七)に入ると、合繊織物、トリコット製品は輸出・内需ともに堅調に推移し、ナイロン、ポリエステルの工賃も一三%から一五%の引上げをみた(『景気動向資料』62・3・22)。この期には、すでに鐘紡・呉羽紡・帝人・旭化成の四社がナイロン原料のラクタム製造とナイロン重合・紡糸に関する欧米先行企業との技術導入契約に仮調印しており、各種合繊分野への後発メーカーの参入は目前に迫っていた。
 ここでは六〇年代の合繊原糸生産の動向について触れておこう。表136(表136 合成繊維設備(1956〜73年))は合成繊維設備の推移を表わしたものである。これによれば、六〇年代を通じてナイロン、ポリエステル、アクリルの生産能力の拡張が顕著であるが、とりわけ六〇年代前半のナイロン、アクリルの伸びと、六〇年代末のポリエステル長繊維の伸びがめだつ。
 合繊原糸生産設備の新増設は、五九年に改正された「繊維工業設備臨時措置法」(改正繊維旧法)により、通産省作成の需要見通しを基準として業界内部で自主調整を行い、通産省がこれに認可をあたえるという方式をとっていた。六二年に官民協調懇談会方式による投資調整を意図した「特定産業振興臨時措置法案」(特振法案)が流産した後、六四年一〇月に合繊部門独自の官民協調懇談会として化学繊維工業協調懇談会が設立され、同懇談会が独自に新増設基準を設定する方式に変更されたが、需要見通しを前提として各社が投資調整を行うという基本的な原則は崩れなかった。こうした調整方式は、各社の増設枠をめぐる競争を激化させて全体に総花的な配分を行うことになり、結果的に需要見通しを上回る設備拡張を誘発するものとなった(『日本化学繊維産業史』、『通商産業政策史』6)。
 さて、六〇年代初頭より試みられたナイロン後発四社の本格的操業は、いずれも六三、六四年にはじまった。鐘紡は防府工場で日産三〇トン、帝人は三原工場で日産一〇トン、旭化成は延岡工場で日産六・二トンでそれぞれ操業を開始した。また呉羽紡は福井県と敦賀市の積極的な誘致により、敦賀工場で日産一五トンの生産を開始した。後発の参入に備えて先発二社も大規模な増設を行い、六二年から六四年にかけてナイロン生産は急増した。原糸の供給先を求めて各メーカーはいっせいに系列機業の獲得戦に乗りだし、いわゆる「合繊ラッシュ」が到来した。
 一方、ポリエステルは、ナイロン同様、六一年に日レ・倉レ・東洋紡により技術導入申請が出され、六四年に日レは岡崎工場、倉レは玉島工場、東洋紡は岩国工場で各日産一五トンの本格的操業に入り、「エステル」の統一商標で市場へ参入した。ポリエステルは六〇年代後半に加工糸製品の爆発的な売行きにより増産を重ね、六八年には鐘紡・旭化成・三菱レイヨン(新光エステル)のいわゆる後々発メーカーの各日産一〇トンの新設計画が了承され、八社体制がスタートした。なお、東洋紡は六六年四月に呉羽紡と合併するとともに、六七年五月には敦賀工場でポリエステル日産二トンの操業を開始している(『日本化学繊維産業史』)。



目次へ  前ページへ  次ページへ