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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    四 教育機会の拡大
      定時制高校の消長
 高校進学率の上昇の過程で、勤労青年に後期中等教育を保障する目的で戦後設置された定時制高校への進学はどのように推移したのだろうか。全国的には、一九五三年度(昭和二八)の五六万七〇〇〇人(全高校生の二三%)をピークに定時制の生徒数は減少していった。
 福井県でも五二年度の二九七一人(全高校生の一七・一%)をピークに定時制生徒の割合はしだいに減少しており、全国的な傾向と同様な全日制への移行がみられた。これを男女別にみると、当初七割から八割を占めていた男子の割合が徐々に減少し、女子の比率が増加していくのは全日制と同じ動きであったが、その経過には興味深い男女差がみられた(図59)。すなわち、定時制の男子生徒数は、六〇年代前半のベビーブーム世代の高校在学期がすぎた後では、全日制への移行によると考えられる急速な減少がみられた。これに対して、女子生徒数は六〇年代前半には同様に増加しながら、七〇年代に入るまで横ばいを続けたため、七二年度から七四年度まで定時制高校の女子の比率は六割をこえていた。
図59 定時制生徒数(1950〜80年度)

図59 定時制生徒数(1950〜80年度)

 こうした定時制の女子生徒数の動向は、福井県の独自の事情を反映したものだった。すなわち、この時期には県内織物業の合繊ブームによって、県外出身者を含む中卒者の求人要請が強く、工場の二部交替制に対応できる昼間定時制の開設が求められていた。六四年一月、中卒の若年労働力不足を危惧した県繊維業界は、県繊維協会・県絹人繊織物工業組合長名で福井市、坂井郡丸岡町・金津町、吉田郡松岡町、大野市、鯖江市の六か所に定時制高校の設置を陳情していた。これを契機に、午前に就業する週には午後に授業をうけ、午後就業の週には午前の授業をうけるといった、昼間二部制を試行していた鯖江高校に加えて、同年度には丸岡高校城東分校、六六年度には勝山精華高校、六八年度には大野高校に昼間定時制が開設された(『日刊繊維情報』64・1・23、『福井県高等学校定時制通信制教育20年誌』)。
 この後七三年の第一次石油危機以降は女子生徒数も減少し、高校進学率が九五%に近づく八〇年代には、全高校生徒数に占める定時制生徒数は、四・五%から三%台になった。



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