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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    二 産業基盤整備の進展
      福井臨海工業地帯造成計画
 一九六七年(昭和四二)春に初当選した中川知事は、国体後の新しい事業計画の策定を企図し、「新総合開発計画」の策定を県総合開発審議会に諮問した。
 六八年三月二五日に答申された新総合開発計画は、目標年次である七五年までに県民所得を倍増させるために、七五年における工業出荷額の目標を四〇八四億円に設定した。そのために基幹産業たる繊維工業の高度化を推進するとともに、重化学工業の育成をはかることとした。その切り札が三里浜に造成する臨海工業地帯である。
 おりしも全国レベルにおいて、第二次全国総合開発計画(いわゆる「新全総」)の策定作業が進んでいたが、この計画は「開発可能性を日本列島全域に拡大」しようというものであり、北海道苫小牧東部、青森県むつ小川原、鹿児島県志布志湾などにおける大規模臨海工業基地と新幹線計画に代表される高速交通・通信網の建設がもくろまれていた。こうした全国的な開発ブームのなかで、福井県の臨海工業地帯造成計画が、中川知事の最大の目玉事業として登場してくることになった。
 九頭竜川左岸に放水路を設けたうえで三国港を浚渫・拡張し、周辺地域を工業地帯にするという構想は、六一年の総合開発計画をうけた立案のなかで登場していたが、これを具体化するものとして最初に示された造成計画は、福井県経済調査協会が県より委託をうけて六七年六月に発表した『三国臨海工業地帯造成計画(案)』であった。ここでは、六万トン級の船舶の入港を可能とするために、河口港のために継続的に土砂が堆積する三国港の拡張整備ではなく、同港と三里浜との中間に新三国港として掘込式港湾を建設し、工業港・対ソ貿易を中心とする貿易港とすること、木材・食品コンビナート・機械金属(アルミ製錬を含む)・コンクリートの四業種を配置することがうたわれていた。県はこの新三国港を「福井新港」と命名して日本港湾コンサルタントおよび日本工業立地センターに新港建設と工業地帯造成について調査を委嘱し、報告を得た(福井県経済調査協会『三国臨海工業地帯造成計画(案)』六七年六月、株式会社日本港湾コンサルタント『福井新港基本計画報告書』六八年三月、日本工業立地センター『福井新港開発経済調査報告書』六八年一二月)。
 六九年九月に県議会に提出された「福井臨海工業地帯造成計画書」(いわゆる「マスタープラン」)は、計画期間を七一年度から八五年度までの一五年間として、臨海部に八六九万四〇〇〇平方メートルの工業用地を造成し、四万トン級船舶を対象とする港湾を建設(将来において一〇万トン級にも耐えられる施設配置を行う)、さらに住宅用地、産業道路、臨海鉄道、工業用水道等の施設整備を行い、七五年度に一部工場の操業をめざす、というものであった。また工業地帯には、アルミ製錬・加工を中核業種とし、これに必要な火力発電所、およびその燃料を供給する石油精製・石油化学コンビナートをはじめ、鋼材加工、機械、食品加工業などを配置するとされていた。財政資金計画は、全体で約四三四億円、七五年度一部供用開始までに約一七一億円の支出を見込み、港湾の国直轄事業・国庫補助事業にともなう地方負担額については起債により大半をまかない、土地造成、県単港湾事業については準公営企業債、工業用水道建設については原則として収益事業債により措置するとされた。
 こうした計画に対して、その実効性や実現可能性をめぐって、県議会や県経済界では疑問の声があがり、県庁内部でも懸念するむきがあった。また中央官庁でも経済企画庁のなかには、重化学工業中心の開発の時代は終わったとの認識から福井県の計画を批判する声があった。マスタープランの公表に先立って八月八日に行われた県主催の関西財界人との経済懇談会でも、(1)原料の導入や製品の搬出などについて条件整備がなされなければ見通しは困難、(2)二〇万トン級船舶の時代に四万トン級の計画は中途半端、(3)日本海の荒波を克服するうえで掘込式港湾は技術的に困難、(4)対ソ貿易に過大な期待は禁物、(5)公害対策や住宅などについて具体的な計画が必要、など批判的な指摘が数多く提出された。さらに、先発の臨海工業地帯における経験をふまえて、建設予定とされる火力発電所からは亜硫酸ガス、アルミ製錬からはフッ化水素、また各工場からの排水による公害の発生を心配する声も広がった(『福井新聞』69・8・9、『朝日新聞』69・11・19・72・10・26)。
 しかしながら、中川知事は計画の具体化へむけて急速に動きはじめた。六九年一二月には造成計画を中部圏基本開発整備計画に盛り込むとともに、工業立地の前提となる火力発電所建設について北陸電力の進出を正式に決定し、公害防止協定の締結を急いだ。また七〇年二月には三国町とともに地元農民との懇談会を開催し、土地買収交渉に着手、四月一日に、財団法人福井臨海工業地帯開発公社を発足させた(『福井経済』70・4)。



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