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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    二 産業基盤整備の進展
      福井国体
 一九五八年(昭和三三)の第一三回富山国体を契機に高まった福井国体開催の声は、翌年には県議会の国体招致決議(当初六九年度大会、のちブロック制施行のため六〇年に六八年度大会招致を再決議)となって現実性をもち、県でも一二月には国体招致委員会を設置して誘致運動を進めることとなった。その後六二年から県は福井市福町に主会場となる福井運動公園の建設をはじめ、六四年に和歌山、三重県をおさえて大会開催が内定し、翌六五年七月正式決定した。県は六四年一二月に国体局を設け、六五年四月に国体準備部、六七年八月に国体部と組織を強化して開催に備える一方、六五年九月に第二三回国民体育大会県実行委員会を発足させ、その事務局に県の行政組織を活用して県庁各部課を割り当てるなど、挙県体制で国体準備を進めた。
 第二三回国民体育大会夏季大会は、六八年九月新築なった福井運動公園水泳場などで各都道府県三八〇〇人の選手が参加して開かれた。また同秋季大会の開会式は一〇月一日に同公園陸上競技場に各都道府県選手団一万七一八〇人を迎え開催され、つづいて各競技は、二日から七日まで県内一八市町村六三会場でくり広げられ、福井県は天皇杯総合優勝、皇后杯第四位の好成績を残した。
写真87 福井国体

写真87 福井国体

 「明るく、きよく、たくましく」を大会スローガンに、人口一〇〇万未満の「弱小県」が最初に取り組む大会として、当時問題となった「ジプシー選手」を排除し、宿泊施設が少ないため選手団の六割を民宿させるなど、「親切国体」を標榜して七五万県民(当時)の総力を結集しようとした大会運営は、「後進県」意識の強い県民に自信を植えつけることになった。
 県はその後の国体でも三六回大会までは全国中位の成績を保ち、福井国体の開催は「スポーツ不毛県」といわれた福井県の競技水準を引き上げる役割を果たしたといえる。また、この大会を契機に、運動公園などの県営施設だけでなく、各市町村営の体育館や野球場、テニスコートなど県内各地に二三億円を投じた施設が整ったことや、県が六九年に福井運動公園に体育指導員室を設置して、一般県民を対象としたスポーツ教室、健康教室などの事業を開始するなど、国体開催は県民スポーツの底辺拡大の端緒となる役割を果たすことにもなった。
 国体関係の予算は総額二四億円、道路など関連事業を加えると四〇億円を上回るといわれた(『朝日新聞』68・1・5)。実際に、国体開催を契機に、県内主要道路や、各競技場を結ぶ道路、主会場となる福井市内の道路などが急速に舗装化されたのをはじめ、六八年三月には春江、金津地区の電話がダイヤル化されて国体会場地の市町すべてが即時通話可能になるなど電話網の整備も進んだ(『朝日新聞』68・1・19)。 また、一〇月一日の秋季大会開会式の当日、開会式場最寄りの北陸線に越前花堂停車場が設置された。



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