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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    三 奥越電源開発と原子力発電所の誘致
      奥越電源開発計画
 九頭竜川の本川に巨大ダムを築き、一帯を大規模な電源開発地帯にするという計画が、北陸電力と電源開発(電源開発促進法により一九五二年九月設立)の競願のかたちで登場するのは一九五七年(昭和三二)春のことであった。北陸電力の計画案は九頭竜川の大野郡和泉村長野と支流である石徹白川の同村後野にダムをつくり、大野市の湯上と西勝原に二つの発電所を建設し、最大出力二五万キロワットの発電を行うというものであった。これに対して電源開発の当初計画は、和泉村長野に九頭竜発電所を建設するなどして三一万五〇〇〇キロワットを開発するというものであったが、五八年二月になって、九頭竜川上流の水を足羽川に落とすなどして各所にダムと発電所をつくり五二万七〇〇〇キロワットを開発するという壮大な計画案を発表した(『福井新聞』58・2・5)。
 当面の電源開発の焦点は九頭竜川上流地点のダム・発電所建設にあったが、福井県の産業界では、北電が開発することで電力が北陸地域に供給され、建設工事も福井県内に基地をおくことになるだろうとして、北電を支持する空気が当初より強かった。電発が開発すると電力は主として太平洋側の工業地帯に供給されることになり、工事の基地も御母衣の開発からの移行を考えると岐阜県側におかれることになり、福井県に益するところは少ないと考えられていた(『福井新聞』58・1・15、23)。
 一方、ダムが建設されると水没する地域の住人にとっては、補償こそが最大関心事であった。和泉村の人びとは、北電より資金力をもつ電発による開発を期待していた。住民の多くは、電源開発を山村での生活のきびしい状況から抜け出す機会としてうけとめ、開発そのものに対する反対はあまり強くなかった。事実、和泉村がおおむね電発支持だったのは電発案の方が長野ダムの満水位が高く、水没面積が広かったという点もあるし、村内で北電支持に回った石徹白川流域の後野地区の住民は、北電の計画ならば水没するがゆえにこちらを支持した。両社競願の状況はさまざまな人びとの思惑が絡み複雑な推移をみせることになったのである。五六年九月に合併により成立したばかりの和泉村は、村の将来を考えるときにその前提を決定的に変えてしまうような大事件に巻き込まれてしまったということになる(『奥越電源開発』、『朝日新聞』64・11・4、5)。



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