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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    一 一九六〇年代の県政
      北知事の再選
 一九六二年(昭和三七)七月に行われた参議院地方区選挙において、熊谷太三郎元福井市長が現職議員の小幡治和を敗って当選した。小幡は自民党の公認争いで熊谷に敗れ、選挙においても大敗する。三年後にも彼は地方区で立ったが、この時も高橋衛に敗れて再起はかなわなかった。県民は福井県出身者を自らを代表する政治家としてもちたいという意向を示しはじめたのである。この事情は知事選においても変わらない。県人を知事にという動きは、戦後知事が公選となってよりあるにはあったが、実現にはいたっていなかった。しかし、北の二期目の知事選挙においては、熊谷参議院議員誕生のさいに醸成された県人ブームをうけて、県出身候補擁立の動きが活発化した(『県議会史』5)。
 再選を期す北の陣営は、県会自民党主流派と結んで六二年九月早々に出馬を宣言し、無風化をねらった(『第百六回定例福井県議会会議録』)。当面はこのねらいがあたって、有力な対抗馬がなく再選は確実視される空気だったが、一二月に入って、麻王伝兵衛ら自民党県連反主流派は福島文右衛門鯖江市長の担出しを策した。福島は同名の父が貴族院議員を務めた素封家で、自身も東大卒業後福井政経界で活躍してきた有力者であった。彼はその時点で党歴五年を数えており当然ながら自民党の公認を求めた。北は対抗上入党せざるをえなくなった(『福井新聞』62・12・2、5、7)。結局、自民党県連の公認争いに北が勝利し、福島は出馬辞退する。北の突然の自民党入党により推せん候補を失ったかたちとなった社会党では独自候補を模索したが果たさず、県人の農民代表を出そうと農政連は動いたがまとめきれなかった。
 最終的には、県人知事、農民の代表の知事を模索した末、すべての可能性が封じ込められた後で麻王伝兵衛自らが無投票を阻止するとして立候補した。選挙結果は北の圧勝であった(『福井新聞』62・12・25、63・1・15、4・18)。しかしこの選挙の過程で北が自民党に入党したことが、結果として北の三選を阻み、置県以来といわれる初の県人知事を生み出すことにつながるのである。



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