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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    一 一九六〇年代の県政
      五五年体制と県議会
 一九五五年(昭和三〇)、中央では左右両派の日本社会党が統一し、自由、民主の保守両党も合同した。これにより、いわゆる自由民主党による一党優位体制が成立して、保守党は包括政党となり長期安定政権が築かれることになった。以後、衆議院議員選挙の福井全県区においては自民党三、社会もしくは民主社会党一の配分が定着する。とくに六三年一一月の第三〇回選挙により選び出された自民党の坪川信三、福田一、植木庚子郎に社会党の堂森芳夫の俗に四人組と呼ばれたりした顔ぶれは連続四回不変で、この間、自民党所属議員は次々と入閣して活躍した。保守党の有力な三人が地盤をすみ分け、社会党からは堂森一名なら当選するという構造が定着したのである。
 坪川は建設大臣・総務庁長官、福田は通産・自治・法務大臣をつとめ、最後は衆議院議長となった。植木は法務・大蔵大臣をつとめている。この四人の顔ぶれが固定したことの意味は、第一に、彼ら自身が有力議員となり、福井県の要望を中央につなぐ役割を果たしたということがある。第二には、国会進出を考える地方政治家が、この四人に割り込むことが困難で、彼らの時代に国会進出適齢であった有力者の進出が阻まれたことがある。中川県政の長期化はその好例であろう(佐藤誠三郎・松崎哲久『自民党政権』)。
 五五年における中央の保守合同の動きは県議会にも保守合同の気運をおこしたが、しばらく若越新政会と自由民主党クラブを軸に離合集散が続き、なかなか県議会レベルでの合同はならなかった。中央におけるほど社会党の勢力が強くなく、県議会レベルでは保守派は結束しなくともよいほど余裕があったともいえる。自由民主党県議員会が成立するのは五七年一二月のことであった。その時の勢力配置は自民党三七、社会党二、無所属二であった。この自民党も五八年にすぐ分裂し弥生会が成立したりするが、五九年二月に自民党と弥生会の合同が行われた。六〇年になって民主社会党が成立し、県議会にも民社党議員が一名誕生した。六〇年四月の勢力分野は自民党三三、社会党五、清交クラブ二、民社党一であった(『県議会史』4、5)。



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