一九五〇年代なかばから、日本経済は高度成長の局面をむかえた。一九五五年(昭和三〇)から六五年に、国民総生産は名目で三・七倍(年平均成長率一三・八%)、実質でも二・四倍(同九・二%)に達し、鉱工業生産も六〇年には二・一倍、六五年には三・七倍になっていた(安藤良雄『近代日本経済史要覧』)。
高度経済成長期前半の福井県政を担ったのが、捲土重来した北栄造知事であった。小幡治和に挑戦して敗れ、小幡知事後の知事選挙を羽根盛一と争って敗れた北は、三度目の挑戦でようやく福井県知事の座を手に入れた。彼は自らの担う県政の現段階を「夜明け前の薄明期」(『第九十三回定例福井県議会会議録』)とか「黎明期」(北陸トンネル開通に寄せたメッセージ)と語り、農業県である福井県を観光・工業県へと脱皮させることを公約し、そのための産業基盤整備を推進したのである(『福井新聞』62・6・10)。
五五年四月に知事となり、行政機構改革を断行して福井県を赤字財政転落から守った羽根は、もちろん続投するつもりであった。五九年四月の知事選挙は、副知事退任後の雌伏八年の間、再起を期してくまなく県内を行脚したといわれる北の陣営と、羽根のもとで総務部長を務めた藤田善男(五九年三月辞職)を選挙参謀に据え、県庁機構のもつネットワークに期待する現職知事である羽根の陣営との一騎討ちとなった。北の陣営には、羽根知事の当選後の行動をおもしろく思っていなかった小幡参議院議員の支持者が加わることになった。とくに、羽根とはいきさつのあった元農林部長門田一は、北を当選させるべく福井入りして精力的に選挙運動を行った(『福井新聞』59・1・1、8、2・21、23)。
両候補はともに無所属で立ち、政党側も旗幟を鮮明にはしなかった。団体のなかでも全県の単位組織を代表する頂上団体であるところの県労評や農村建設政治連盟(農政連)は、支持候補の一本化ができず態度を鮮明にはしなかった。繊維関係の業界団体では一部、役員会レベルで羽根推せんを決めたが動きは鈍かった。その他の県内の業種別、地区別の団体の多くは羽根支持・推せんに傾き、支持・推せん団体数の比較では圧倒的に現職の羽根が有利とみられたが、結果からみるとその運動は上滑りしていたようで、四万票の大差をつけて北が当選したのである(『福井新聞』59・4・24〜26)。 |