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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    四 労働運動の動向
      春闘の定着
 賃上げ闘争を春の時期集中して行う「春闘」は、福井県内でも総評の方針に呼応して一九五六年(昭和三一)から組織的に開始され、全労傘下の組合も春季に賃上げ闘争を行うようになったため、六〇年代から七〇年代なかばにかけて春闘は全国的に定着した運動方式となった。
 五八年秋からの景気回復を背景に、六〇年に福井県中部地区労働組合協議会で指定した三労組(東洋化成・北陸コンクリート・津田製作所)を拠点とした春闘が組まれ、さらに翌六一年には、最低三〇〇〇円の賃上げをめざして福井・石川・富山・新潟の北陸四県で春闘共闘会議が結成され、県労評加盟組合の平均妥結額は、平均要求額の六二%にあたる二二八一円と、中小企業組合でも一定の水準の賃上げを獲得していた(『朝日新聞』61・5・27)。
 一方全繊同盟県支部では、五九年からの一五歳初任給・二か月後・三年後の最低賃金を定める「三ポイント闘争」と平均賃金の引上げ(ベースアップ)で勝利し、最低賃金審議会に対して、この三ポイント賃金を最低賃金基準額とするよう要求することで、中小企業の繊維労働者の賃金水準を引き上げることになった。景気が後退する六二年以降では、比較的高水準で成長していた染色部門の単位組合で共闘会議が組まれ、これを賃金獲得の突破口として織布部門の賃上げ闘争が展開された。なお、六三年一一月には、全日本労働総同盟組合会議(同盟会議)の結成をうけて、全労県支部は解散し福井県同盟会議が発足し、さらに六五年一月、全日本労働総同盟(同盟)の地方組織として福井地方同盟が結成された(『福井県労働運動史』1、2)。
 県労政課調査による春闘の平均賃上げ額は、継続的な消費者物価の上昇と若年労働力不足もあって、六六年以降七〇年まで三〇〇七円(賃上率は八・六%)から八〇〇七円(同二〇・五%)へと上昇を続け、七一、七二年で賃上げ率こそ減少するものの、八六一三円、八九九五円とふえ続け、七三年には一万三六七九円(同二二・九%)とさらに上昇した(福井県労政課『福井県の労働経済』)。
 この過程で、春闘の要求には、賃上げとともに退職金制度の創出や定年延長、合理化反対、医療保険制度の改善などの「制度・政策要求」が掲げられるようになり、また、実質的に実力行使の柱となっていた国労、動労、全電通などによる公共企業体等労働組合協議会(公労協)では、スト権回復の要求が高まっていった。七三年春闘には、自治労・日教組とも四月二七日にスト権奪回を掲げた半日ストを行うことを機関決定し、県内では高教組、福井市職組などの半日ストをはじめ各組合で時限ストなどを実施した。
 七三年秋の第一次石油危機直後からの急激な物価高騰のなかで、翌七四年三月には県労評、福井地方同盟、インフレ反対県民共闘会議の共催によって生活危機突破福井県民大会が開かれた(『朝日新聞』74・3・8)。同年春闘では「インフレを乗りこえる大幅賃上げの獲得」「スト権奪還」の要求とともに労働時間短縮、物価抑制、社会保障制度の充実が掲げられ、四月一一日から一三日にかけてゼネストが決行された。この「国民春闘」と呼ばれた大規模な闘争により、民間中小企業でも大幅な賃上げが実現し、平均賃上げ額は史上最高の二万三四一〇円、賃上げ率三二・九%となった。(『福井県労働運動史』3)。しかし翌七五年一一月から一二月にかけての公労協の八日間におよぶ「スト権スト」以降、ストライキなどの実力行使は減少し、賃上げ率は年々低下傾向となり、雇用対策の充実が主要要求となっていく。



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