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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    四 労働運動の動向
      県労評と労働運動
 福井県労働組合評議会(県労評)は、発足間もない一九五一年(昭和二六)六月の段階で県下の労働組合員約四万名の七割にあたる二万八〇〇〇名を擁し、福井県の労働運動の中心的役割を担うことになった。この県労評が五〇年代において取り組んだおもな課題は、労働基本権の擁護、平和、生活権の確保であった。すなわち、政府が日本の独立回復にともなってみせた占領期の諸改革の「行過ぎ」の是正や経済の自立化の名のもとに進められた産業合理化などの動きにいかに対抗していくかであった。
 政府は五一年、講和後の治安体制を確立するため労働組合活動の制限などを検討しはじめた。それは、労働法規の改正や五二年の「破壊活動防止法」制定、さらには五三年の「スト規制法」制定の動きとして具体化することになる。これに対して県労評は、日本労働組合総評議会(総評)に呼応して反対闘争を展開し、当時深刻化していた労働者の解雇や賃金の不払いなどの問題に結びつけて労働者の結集をはかった。
 とりわけ五八年の「警察官職務執行法」(警職法)改正の動きに対しては、反対闘争が大きく盛り上がった。警職法の改正案は警察官の権限を大幅に拡大しようとするものであったため、基本的人権が侵害される恐れがあるとして、労働組合のみならず広範な国民各層の反対運動を呼びおこすことになった。福井県では、一〇月、県労評・福井県地方労働組合会議(全労県支部)・社会党福井県連合会によって警職法改正反対共闘会議が結成され、同月開催された警職法改正反対協力会議では前記三団体のほか共産党や福井平和の会・福井県仏教連盟なども参加して運動方針が決定されるなど、反対運動は大きな盛上りをみせた。その過程で、南福井駅で国鉄労組員と鉄道公安官とが衝突して組合幹部ら六名が逮捕される事件もおこっている。警職法改正案は、一一月、全国的な反対運動の高まりのなかで廃案となったが、このときの国民の反対運動への結集は、五九年以降の安保改定反対闘争に引き継がれていくことになった。
 五〇年代には平和運動も大きな盛り上がりをみせた。米軍基地の存在や米軍の水爆実験による第五福竜丸の被災、MSA協定や安保条約改定にみられる軍事面での日米の関係強化は、戦争の記憶がまだ新しい国民の不安をあおり、彼らを平和運動に駆り立てていくことになった。福井県において平和運動が身近なものとして認識されたのは、五三年夏、米軍の海上演習地として若狭湾の一部が接収されることが表面化したさいであった。これに対して、県労評はすぐさま反対闘争に立ち上がり、県漁業協同組合連合会や県連合青年団も独自に反対運動に乗りだした。県労評はこれら団体との共同闘争を模索したが実現せず、やがて県漁連の態度が絶対反対から漁民の生活に影響のない海域に演習場をつくる場合は反対しないという線に後退するにいたり、結局接収を許すことになった。
 県労評は、若狭湾接収問題では苦しい闘いを強いられたが、五四年の第五福竜丸の被災にはじまる原水爆禁止運動では大きな力を発揮した。五四年八月、県労評は原水爆禁止連絡協議会を結成して原水爆禁止についての知識の普及や署名運動を積極的に推進し、五七年七月には県下四六団体が集まり、原水爆禁止福井県協議会(会長羽根知事、副会長猿橋ユリ県婦人団体連絡協議会長・星谷慶縁県宗教連盟会長・万谷義雄県労評副会長、事務局長中川卓二県連合青年団理事)が結成された(『福井新聞』54・8・11、57・7・13)。
写真83 県労評による原水爆禁止の署名運動 

写真83 県労評による原水爆禁止の署名運動 

 安保条約の改定の動きは五八年秋より具体化し、翌年三月には安保改定阻止国民会議が結成された。福井県でも同年七月、県労評、社会党県連、働く婦人の会など一五団体により安保改定阻止県民会議が結成された。六〇年一月に新安保条約が調印され、五月、衆議院でその批准が強行採決されると、運動は平和を守るとともに民主主義擁護の闘いとして拡大していった。県内では全国統一行動に呼応して、労働組合による時限スト、市民によるデモ行進、抗議集会などが実施された。運動は六月一九日に新条約が自然成立し岸信介内閣が退陣すると終息にむかったが、一連の平和運動が労働組合を中心に国民的運動にまで発展したことは労働運動の大きな成果であった(『福井新聞』59・7・19)。



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