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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    四 労働運動の動向
      産業合理化と労働運動
 一九五〇年(昭和二五)の朝鮮戦争勃発後、日本経済は特需景気にわいたが、翌年夏から休戦が模索されはじめると、朝鮮戦争ブームは退潮にむかった。また、五二年の日本の国際社会への復帰によって、日本はきびしい国際競争のなかで経済的に自立する必要に迫られていた。こうした環境のもとで、各企業は生残りをかけて合理化に乗りだしていくが、これに対して労働者は人員の削減と労働強化を意味するものとして強く反発した。五〇年代前半の争議の多くはこの合理化との闘いであった。
 表118は県内の企業整備状況を示したものである。これによると、五一、五二年には企業閉鎖による人員整理が多く、その後縮小による整理が大幅に増加して、五四年には整理人員が六〇〇〇人をこえるまでにいたった。企業整備の動きと並行して、従業員への賃金不払いも続出し、福井労働基準局調査による五四年一月から九月の集計によると、従業員一〇〇人以上の事業場で八件、一〇〇人未満一〇人以上一〇九件、一〇人未満一〇一件の賃金不払いがみられ、不況風は中小企業に強かった(『福井新聞』54・10・19)。

表118 福井県の企業整備(1951〜56年)

表118 福井県の企業整備(1951〜56年)
 このような状況のなかで県労評は、最低賃金制の確立や賃上げの獲得、解雇反対などの生活権を守る闘いを推進した。たとえば、五三年の福井印刷株式会社の夏季手当および年末手当をめぐる争議や、同年の北陸電気工事株式会社勝山営業所の従業員全員解雇をめぐる争議に対して、県労評は労組を強力に支援し闘いを勝利に導いた。
 ただ、この時期、組合活動に対する経営側の姿勢は強硬で、いったん争議が発生するとそれが長期化かつ先鋭化する可能性があった。経営者は人員整理と賃金の抑制で不況をのりきることに懸命で、簡単には組合の要求を受け入れられない事情があったのである。経営側の攻勢に遭遇した労組では、階級闘争的な見地からあくまでも強力に闘争を展開して要求を勝ち取ろうとする者と、非妥協的な闘争は労資共倒れになるとして会社側の合理化に協力して生産性を向上させその成果の配分にあずかろうとする者との路線の違いが表面化し、分裂の危機に直面することになった。



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