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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
     二 人絹不況と系列化
      染色加工部門の技術革新
 こうした川上からの系列化の圧力もさることながら、川下の染色加工部門における先行的な技術革新の存在が福井県織物業の品質と生産性の向上を支える大きな力となっており、系列化がこの面からも強制されたことは強調しておく必要がある。
 この期の染色加工部門の技術革新の中心は、樹脂加工技術の開発とその急速な普及にあった。人絹織物の短所は、柔軟性に欠けるためにしわが寄りやすく、また吸水性が高いため洗うと縮んでしまうという点にあったが、一九五〇年(昭和二五)、絹織物輸入関税引下げ訴訟のため渡米した福井精練加工社長黒川誠三郎は、張力をかけずに仕上加工されるアメリカ製品の高級感に触発され、技術開発に乗りだした。福井精練では、スイスからテンションレスジッガーを導入して取引先にこれに適する糸・織物・機料の改善を要請し、また生地にスチームプレスすることによって絹のような風合いをだすことに成功してこれを「クレポニー加工」と命名した。他方、「尿素・メラミン・初期縮合樹脂」を開発し、わが国初の人絹織物樹脂加工に成功した。五二年五月には日本開発銀行の融資をうけた樹脂加工専門工場が本社工場内に設立され、右の二つの加工技術を組み合わせた「クレポニー・セレナイズ加工」が開発された。これは旭化成の川上・川下一貫体制のなかに組み込まれ、同社のチョップ品「ベンベルグデシンAK三五〇〇」として好評を得た。このほか同社の先進的な加工技術により広撚のムービー、帝人のビューティクレープなど多くの評判の高い織物が生まれた(『セーレン百年史』)。
 一方、酒伊繊維工業(五二年四月、製織専門の酒伊合同紡織と加工兼営の酒伊繊維工業が合併)においても同時期に「ピオニー加工」「コロネーション加工」と称される樹脂加工に成功した。戦前から東レとの関係が深かった同社は、五三年東レより重役派遣をうけ賃織関係を強化し、ナイロン製織・染色加工の開発に乗りだし、本社ナイロン工場の本格的拡充が進められた(『酒伊繊維三十年の歩み』)。樹脂加工・特殊加工技術は中小染工場にも急速に普及し、五四年には福染興業のクラレッタ、興国織染のリプレット、丸三染練の朱子仕上、浦瀬染工の電着加工など、各工場独自の特殊技術が開発された。また戦前より捺染技術に長じていた福染興業では五六年にラッカープリントの特許を得た(『福井県繊維産業技術史』)。
 こうした加工技術の高度化は、原糸メーカーとの協力のもとに進められるとともに、前工程の製織部門における品質管理の強化を促すことにより企業の系列化を進める大きな要因となった。とりわけアセテート、ナイロンなどの新規商品開拓分野では、こうした協力関係を前提に商品開発が進められた。早くも五一年には東レ、酒伊繊維、勝倉織布、田村駒(商社)によるナイロン織物の一貫協力体制が組まれた(『福井繊維情報』51・10・28)。また、ナイロンはトリコット(経編)生産が先行するかたちで普及したが、五二年二月には、福井精練(勝山工場で仕上加工に成功)、編織工場八社(うち県内企業は福井編織・福井経編工業・丸二興業・勝山兄弟・小野メリヤス)、蝶理、日本トレーディングが東レ大阪本社に集まり、第一回ナイロントリコット研究会が開催された。アセテートについても、五四年五月に福井精練は帝人と染色加工契約を結び、勝見工場をアセテート専用工場に転換し、帝人の指定製織工場のアセテート織物の加工を開始した(『セーレン百年史』)。
 このように人絹製品の量産化、新規織物の開発が、メーカー・特約商社と染色加工企業の協力関係を軸にして展開しはじめ、こうした動きはつぎの合繊への転換期にますます重要性を帯びてくるのである。



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