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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    三 戦後繊維産業政策の展開
      生産調整の開始と不調
 一九五二年(昭和二七)三月の通産省による綿紡績業界への操短勧告に端を発する各種原糸価格の維持政策は、過剰生産に悩む織物業界の困難を増幅するものであった。図49は、五二年から五七年の人絹市況と工賃の推移について示したものである。
図49 人絹糸・織物相場、工賃(1952〜57年)

図49 人絹糸・織物相場、工賃(1952〜57年)

 戦前であれば工業組合を通じた共同操短による生産調整が可能であったが、戦後の独占禁止法体制のもとで工業組合は廃止され、四九年に成立した「中小企業協同組合法」では生産制限、設備制限といったカルテル行為は禁止されていた。そこで五二年はじめより中小企業の共同操短を可能とする立法措置を求める織物業界の通産省や繊維関連議員に対する働きかけが強められた。五二年二月には参議院経済安定委員会の佐々木良作委員長らの来県を皮切りに、福井県で約一か月の間に四度にわたる国会議員団の現地視察が行われている(『福井繊維情報』52・2・22、26、3・9、11、25)。
 通産省繊維局、繊維議員連盟は、当初、繊維産業を独禁法の枠外におき、その生産調整を可能にする繊維産業安定化法案を立案した。しかし、完全に独禁法を形骸化する同法案は成立せず、かわって非繊維業種を含む指定中小企業業種について一年間に限り独禁法の適用除外とする「特定中小企業の安定に関する臨時措置法」(安定法)案が上程され、六月に国会を通過した。この安定法の主眼は、(1)指定業種(当初一四業種、うち繊維関連は九業種)について調整組合の設立を認め、調整組合は通産大臣の監督下で自主的に生産調整・設備調整を行うことができる、(2)同法二九条により、自主調整が困難な場合には、組合の申請により通産大臣が生産制限等の勧告・命令を当該業種のアウトサイダー(調整組合非加入者)を含む全事業者に対して発動することができる、という二点にあった(『通商産業政策史』6)。
 五二年八月一日の安定法施行にともない、福井県織物工業協同組合連合会は調整組合結成の準備を進めた。各地区組合の組合員の調整組合加入については、五台以下の零細業者に対して調整から除外する旨の通産省の意向が表明されたこともあり、比較的スムーズに行われた。他方、製造業会に加盟する有力機業や組合非加盟の酒伊繊維工業、東洋レーヨン金津工場などの大機業では、(1)調整組合の発言権が企業規模を問わず平等である、(2)過去の生産実績による調整を行うため、そのさいに組合検査をうけていないことが不利になりかねない、(3)脱退後三か月間の生産調整への拘束義務がある、などの懸念があり、加入を渋る動きがあったが、市橋保治郎福井銀行頭取のあっせんもありこれらの大機業の協力も取りつけ、九月六日、福井県輸出向絹人絹織物調整組合の創立総会が挙行された(理事長前田栄雄)。この時点で加入工場は一八七〇工場で、県下機業数二〇六五工場の九一%(実働工場一九一五工場の九八%)の加入率であった。全国の輸出向け絹人絹織物産地でもあいついで調整組合が結成され、翌五三年一月二〇日、輸出向絹人絹織物調整組合連合会が創立され、理事長に前田、副理事長に石川県の安井睦美が就任した(『福井繊維情報』52・8・8、14、28、29、9・2、9、53・1・22)。
 調整組合による調整規定が認可され織機台数割による二割の共同操短が実施されたのは五三年二月一七日であった(『福井繊維情報』53・2・19)。以後三か月ごとに規定が更新されたが、八月に安定法が恒久法となった後の一〇〜一二月期調整からは、(1)人絹織物の調整基準を五三年一月から六月までの生産実績の八割とし、一か月の織機一台あたり最高生産能力を二〇疋とする(二部制操業者は三〇疋)、(2)登録織機五台以下の機業は五%の操短にとどめる、(3)超過生産一ヤールにつき二〇銭の調整金を徴収する、(4)制限織物の生産量に応じて生産調整賦課金を徴収する、という本格的な調整がはじまった(『福井県繊維産業史』)。しかしながら安定法実施には以下のような困難があり、生産調整の効果はあがらなかった。まず、大蔵省の反対により休機補償が認められず、金融の裏づけのない調整に対する業者の反対が強かった。また、調整規定に操業時間の制限がないため増産を抑えられず、事実上設備の新設を抑制できなかった。さらに重要な点は、二九条の発動までに最低一か月を要するため効果が薄いとみなされており、当の通産省自身が、とりわけ大紡績業者の兼営織布が三割を占める綿スフ織物業界における調整の効果に疑問をもち、政府の直接命令にもかかわらず調整に失敗することをおそれ、命令の発動に二の足を踏んでいたのである(『昭和三〇年福井県繊維年報』)。
 このように生産調整の実効がないまま、「原糸高織物安」の状態は解消されなかったが、さらにこれを増幅する要因も現われた。人絹パルプ・リンク制の採用である。通産省は国際収支の悪化にともない繊維製品の輸出振興策を進め、五三年七月より綿工業における原棉割当方式として輸出リンク制を採用したが、人絹においても一〇月より人絹製品のED(輸出実績確認書)による人絹パルプ輸入外貨資金の割当を行うリンク制度を実施した。当時人絹パルプの七割は国産でありこれに輸出リンク制度を採用すること自体に問題があったが、人絹糸メーカーが自己の輸出実績を上げるために原糸を売り出すさいにED引換えを条件としたため、糸価が高騰するとともに原糸の確保のために賃織への移行を余儀なくされる機業が続出した。これに対して、賃織への移行が困難な中小機業を中心に、糸の確保を政府に求める声が高まった。五四年に入り、これら中小機業をグルーピングし、それぞれのグループごとに原糸メーカー・商社と共同購入契約を結ぶという通産省案が出されたものの、結局メーカー・商社の抵抗でこの共同購入案は進捗せず、実現したケースでも事実上は従来の特約商社中心の連携ブロックを志向するものとなった(『福井繊維情報』53・11・20、12・3、18、54・4・7、18、23、5・11、13)。



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