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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    一 食糧増産と農業
      農業改良普及事業
 新しい技術の普及には、行政による薬剤散布への補助金のほか、農業改良普及事業による効果が大きかった。 総司令部天然資源局の意向によって一九四八年(昭和二三)に成立した「農業改良助長法」は、農村の民主化、自主的農民の創出、自主的なクラブ活動、農家の生活改善をめざしたものであり、本法にもとづいて農業改良普及員が制度化された。福井県では四九年に、前年に任命されていた食糧増産技術員五七名と同年の農業改良普及員試験合格者一九名の計七六名から構成される農業改良普及技術員を、二四か所に設置した地区農業改良普及所に配置し、農業改良普及員制度が発足した。その後、五三年には専門技術員九名、生活改良普及員一六名、農業改良普及員一三四名、改良普及所三〇地区と拡大された。農業改良普及員は、象徴である緑の自転車に乗って、受持ち区域の農家を巡回して農業・生活改善に資する新技術の紹介・普及につとめた。講習会などで映写機や幻灯機によって紹介され普及した新技術は、前述した保温折衷苗代や新しい肥料・農薬であった。この期の農業改良普及事業は、稲作を中心としつつも農業部門にとらわれない総合的な指導をめざしていたが、六一年の「農業基本法」成立と農家の階層分化の進展にともない六二年からは各普及員が専門部門別に指導する特技活動方式がとられるようになった。
 改良普及員は、技術改良だけでなく生活改善にも大きな影響をあたえた。農家の女性は農繁期には農業労働と家事労働で一四時間から一六時間にもおよぶ重労働を行っており、戦後民主化の一環として民法の改正が行われ家族間の差別が原則として廃止されたにもかかわらず、黙々と働かざるをえない家族関係が存在していた。生活改良普及員は、このような農家女性をおもな対象として生活改善に努力した。福井県では、五一年以降生活改善モデル集落を選定して台所の設置や改良かまどの設置を指導するとともに、五三年には製パン施設や製麺施設の普及にもつとめた(福井県『普及事業二十五周年記念誌』)。
 これらの普及事業は、戦前の官製的強制的技術指導とは異なっていたものの、食糧増産政策を至上とする政策のもとで実施されたため、より安定的に増収する稲作技術を行政によって強力に指導・普及しようとしたものであった。たとえば、保温折衷苗代の普及にさいして「地方によって多少の違いはあるが改良普及員の指導通りにいって……決して失敗するものではない」と指導に従うことを強制し、戦後に続出した種々の農法について「若し採用せんとする場合には必ず研究機関、指導機関と緊密な連絡をとり科学的栽培法を行うよう農家を指導されたい」と改良普及員に対して通達を発している(『福井新聞』54・4・8、福井県『普及事業二十五周年記念誌』)。
 この強力な行政による指導は宗教や迷信などと結びつく農法の排除には役立ったが、高度経済成長期以降になると農業所得の他産業に対する劣位が決定的になり、農業を従とする第二種兼業農家が増加したこともあいまって、自主性を失った多くの農民を創出することになっていく。自主的な農民を創出するという農業改良助長法の目的がなかば失敗に終わった背景として、手本であるスミス・レーバー法では既存の協同農業事業を制度化したのに対して、農業改良助長法では制度を作成し事業を後追い的に実施しなければならなかった社会状況に求めることもできよう。そのため過度の農薬投下の危険性が明らかになり、消費者と農民の提携によってあらたな農法が芽生えてくるのは七〇年代以降まで待たねばならなかった。
 とはいえ、この期には「所有は砂を化して黄金となす」の言葉に代表されるように、農地改革によって自作化した多くの農民は増産意欲に燃え、農村には技術指導の受け皿になる農事研究会など多くの組織が結成された。その一つが、4Hクラブである。4Hクラブは、青年農業改良クラブと同じくアメリカにおける青少年の農業改良活動を手本に普及がはかられ、強制加入と政治的活動を排除した一〇代の青少年による自主的な組織で、科学的な農業技術と生活態度を身につけることを目的としたものである。福井県においては、四九年八月丹生郡西安居村に結成されて後、五三年には一三三団体・二〇六三人、五五年には二〇〇余団体・六三二一人と拡大したが、以降減少していった(『福井新聞』55・2・14)。
 また、各地で品評会や共励会という名称で単収を競う催しが開催され、増産意欲を高めた。とくに、四九年から国・地方自治体の支援のもと朝日新聞社主催ではじまった「米作日本一」は、四九年坂井郡芦原町の鈴村康(一〇アールあたり収量六九〇キログラム)、五〇年今立郡国高村の北畑与三郎(同四八一キログラム)、五一年大野郡富田村の米村竜栄(同六四五キログラム)などが福井県一となり、福井県から米作日本一を出すことはできなかったが、六〇年代まで多くの精農家が参加して続けられた(福井県農業協同組合中央会『農業と協同組合の年表』2)。



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