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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    一 食糧増産と農業
      交換分合と土地改良
 農地改革によって創設された自作農の農業経営を合理化し農業経営基盤を確立するためには、零細な耕地が分散している状態の改善、すなわち零細錯圃制を解消する必要があった。そのために実施されたのが交換分合である。一九四九年(昭和二四)に制定された「土地改良法」にもとづき制度化された交換分合事業に対して、県農地課では「農地等交換分合事業推進要綱」を定め(資12下 二二六)、マスメディアや講習会などを利用した宣伝啓蒙、基礎調査、集落・町村・県の各段階に推進協議会などを組織し、集落単位での計画・実施を指導した(第三章第三節一)。
 五一年度に実施された吉田郡河合村勝見集落(農家数二〇戸)の交換分合を具体例としてみておこう。対象となった耕地三六町九反歩は、事業以前には一一〇〇筆(一筆あたり約三畝)、七五四団地に分散しており、農家は平均三八団地で耕作しなければならなかったが、事業後には畦抜きを行ったこともあり、三五七筆(平均約一反)、二六七団地になり、農家は平均一三団地を耕作することになった。現在からみると一筆あたり面積はなお狭小であるが、耕耘過程に機械が導入されておらず畜力耕に依存していた当時では、交換分合によって労働効率は向上した。その効果は、本田耕起・畦塗り・田植えなどの農業労働を減少させることにより、反あたり稲作労働は二二〜二五人日から一八〜二一人日に減少した。この農業労働の減少は、とりわけ婦女子の労働を軽減したと報告されている(金沢農地事務局『農地交換分合の実態』)。
 一般に個々の耕地は地力、用排水、形状、日照などの諸条件が異なっているために、交換分合にさいしては農家の同意を取りつけることが困難であった。そのため、前述の河合村でも五〇年度に予定された三集落のうち一集落で交換分合の実施を断念している。しかし五一年から五五年までは行政による強力な指導によって毎年二七五〇町歩から四〇二〇町歩の耕地を対象に実施されたが、五六年以降急激に実施面積が減少していく。その要因を新聞は、五五年までは耕地条件が比較的同程度である平坦部に導入されたのに対して、五六年以降耕地条件の差異が大きい山間部に導入されはじめたためと報じている(『福井新聞』58・1・22)。
 五二年の調査によれば、福井県の水田四万五四七六町歩のうち、二毛作が可能な乾田は一万二五二五町歩(二八%)のみであり、湿田二万三六五九町歩(五二%)、半湿田九二九二町歩(二〇%)と湿田が多かった(『県統計書』)。湿田は、水害をうけやすく集約的な水管理ができないため水稲単収が低く、食糧増産上から解消が求められており、農家経済上からも二毛作や蔬菜作などにより多角化するため、乾田化する必要があった。そのため、四八年から五五年まで県政の重点施策の一つとして、農地乾田化が推進された。初期の乾田化事業は中小河川の改修によって乾田化の基礎を形成することが中心であったが、五一年に成立した「積雪寒冷単作地帯振興臨時措置法」以降は、一定規模以上の団体営事業には国庫補助金が投下され、小規模土地改良事業には県費補助金が投下されるようになっていく。五一年から六一年に積寒法によって実施された事業は、潅漑排水(五九一か所)、農道(三四〇か所)、区画整理(二〇一か所)などが中心であり、本事業によってどの程度乾田化が進展したのかは明らかでない(『福井県土地改良史』)。しかし、本事業とそれに連なる構造改善事業によって、国費・県費を導入した土地改良が県内くまなく実施されるようになっていくことは注目される。



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